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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(高岡霊社)
高岡
霊社
高岡
霊社(たかおかれいしゃ)(現高照神社、中津軽郡岩木町)は四代藩主信政を祀る。,信政は江戸幕府神道方吉川惟足(よしかわこれたり)に師事して、その奥義と「
高岡
霊社」の称号を授けられた。,同社は藩士から「
高岡
様」と崇敬された。,明治元年(一八六八)の「
高岡
祭司下役并御宮附小人共迄人別増減書上帳」(高照神社蔵)によれば、祭司役の配下 /
高岡
霊社
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
城下
高岡
の形成 当時、弘前は「二石(についし)」と呼ばれており、築城後は、「
高岡
(たかおか)」と呼ばれた,なお、「
高岡
」の地名由来は「鷹が営巣(えいそう)する岡」にあるらしく、慶長十五年八月幕府の鷹匠三橋但馬,築城当時の城下
高岡
がどのような状況であったのかは、資料がなく不明である。 / 城下
高岡
の形成
通史編2(近世1)
(二六 高岡霊験記(たかおかれいげんき))
二六
高岡
霊験記(たかおかれいげんき) 高照(たかてる)神社祭司の後藤兵司が、宝暦改革の顛末(てんまつ / 二六
高岡
霊験記(たかおかれいげんき)
通史編3(近世2)
(高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入)
高岡
霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入 真言宗久渡寺(くどじ)(現市内坂元)の役人の今庄太郎は、安政三年,(一八五六)十一月九日に、第四代藩主津軽信政(のぶまさ)を埋葬した
高岡
(たかおか)霊社(現中津軽郡岩木町百沢 /
高岡
霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入
通史編2(近世1)
(為信の築城計画)
為信の築城計画 津軽統一を成し遂げた藩祖為信(ためのぶ)は、領国経営の中心として
高岡
(たかおか)(弘前,この建設が築城と一緒であったのか、別であったのかははっきりしないが、『永禄日記』(北畠本)では、
高岡
に,為信が当時の本拠堀越(ほりこし)城(現弘前市堀越)を捨てて、
高岡
築城に踏み切った理由は、堀越城が水に弱,しかし、為信時代に
高岡
の町屋建設が、どの程度進展したのかは不明である。,慶長十一年五月に、
高岡
の町屋に引き移る者へ米穀を給し、町並みがしだいに整うという記録があるが(資料近世
通史編2(近世1)
(高照神社の造営と「名君」信政像の創出)
神道方であった吉川惟足(よしかわこれたり)に師事し、吉川流唯一神道(ゆいいつしんとう)の奥義を極め「
高岡
霊社,信政は、春日四神(津軽家がその流れをくむとされた藤原氏の氏神たち)を祀る小社のあった
高岡
(現中津軽郡岩木町百沢,信政の葬儀は菩提寺の天台宗報恩寺で営まれ、神道による祭儀によって
高岡
に葬送された。,墓 五代藩主津軽信重(のぶしげ)は翌正徳元年(一七一一)から同二年にかけて信政の神号をとった
高岡
霊社,一般には「
高岡
様」として崇敬の対象となり、祭日に藩士たちは拝礼を欠かさないといわれたほどである。
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
そこで新たに「
高岡
」の地へ新城築城を計画し、幕府にその許可を求めるとともに、町割りに着手したのが慶長八年,なお、ここ
高岡
の地名を弘前と改めたのは、八幡宮や神明宮、東照宮などがそろい、岩木山下居宮の楼門などが竣工
通史編2(近世1)
(三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)
大浦(おおうら)城から、文禄三年(一五九四)に堀越(ほりこし)城へ、さらに慶長十六年(一六一一)には
高岡
通史編4(近・現代1)
(藩祖三百年祭)
九月三日には革秀寺で、四日、五日には長勝寺でそれぞれ藩祖の大法会を執行し、十一日には
高岡
神社で神式祭を,九日夜は花火打ち揚げ、十日昼は弘前公園本丸に
高岡
神社の遙拝所を設け、四の郭には余興や見世物があり、公園内
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
為信は、早くも慶長八年(一六〇三)、
高岡
(弘前)の地に「町屋派立を仰付けられ」て地割を行い、同十一年にも,かくして慶長十六年、二代信枚は新造なった
高岡
城(弘前城)に移り、さらに元和元年(一六一五)の「一国一城令
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
この城郭の軍事面と家臣団統制の強化のため、為信は早くも慶長八年(一六〇三)、
高岡
(弘前)の地に町屋の屋敷割,慶長十六年の
高岡
城(弘前城)への居城移転の準備が始まったのである。
通史編2(近世1)
(津軽領内のアイヌ民族)
たとえば、寛文九年、石狩の「犾大将」ハウカセは「我々先祖は
高岡
へ参、商仕候」と述べている(同前)。,「
高岡
」は弘前の古称である。,このことから、
高岡
という地名が弘前に変わり、それが津軽領内で普遍化してきたと考えられている正保期には、
通史編3(近世2)
(斎藤規房)
同八年八月吉川家を辞して帰藩し、翌十一年十一月学問所の和学方御用掛に任じられ、同十二年十月
高岡
神社の祭司手代
通史編3(近世2)
((四)瓦)
慶長十六年(一六一一)、築城(
高岡
城)に際して使用されたとされる瓦の製造場所は現時点では明らかでない。
通史編3(近世2)
(熊野宮)
熊野宮 熊野宮(現熊野奥照神社)は、「陸奥国
高岡
熊野神社鎮座伝記」(資料近世2No.四一八)によれば
通史編1(自然・原始)
(刊行によせて)
わがまち「弘前」は、藩祖津軽為信公が
高岡
の地に町割りを計画したことに始まり、以来先人たちの営々とした努力
通史編3(近世2)
(信明)
信政の命日には
高岡
霊社に、初午には城内の館神である稲荷宮に参詣した。
通史編3(近世2)
((二)年中行事と生活)
四月中…藩主、革秀寺(かくしゅうじ)・
高岡
(たかおか)(現高照神社)・岩木山へ参詣。,二十一日…
高岡
霊社(現高照神社)祭日。城内で拝礼・神楽(かぐら)。
通史編3(近世2)
((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)
また、処刑の時は縛られて馬に乗り、肩の後ろに死刑の印である小幡(こばた)を付け、
高岡
(たかおか)(現弘前市,教徒は五つの団に分けられており、その一つは
高岡
付近であるが、ほかはどこか比定できない。
通史編2(近世1)
(寺社政策)
「
高岡
霊験記(たかおかれいげんき)」は高照(たかてる)神社の祭司役後藤兵司(ごとうへいじ)が、宝暦改革,図143.
高岡
霊験記 目録を見る 精細画像で見る 改革当初の基本的な方針は、藩財政再建策の一環
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
さらに、為信の意志を継いだ二代信枚は、慶長十五年(一六一〇)、
高岡
の地に新城築城の事業を起こし、翌年、,堀越から移転する(寛永五年・一六二八、
高岡
は弘前と改称される)。
通史編2(近世1)
(乳井の略歴)
「幼年の時より世事かしこく、才智にして多芸」(「
高岡
記」『伝類』)であったという。,乳井の勘定奉行登用の経緯は「
高岡
記」(『伝類』)によれば次のようである。
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
同十五年、
高岡
(現弘前市)に築城すると、長勝寺も賀田より移転させ、長勝寺構の中心に据えた。
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
虎口Fは一般に大浦城の大手門跡とされ、建物は慶長十五年(一六一〇)の
高岡
城築城の際、
高岡
城(弘前城)の
通史編2(近世1)
(宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)
家中知行米買上分 39,499 24.83 余分地米 8,311 5.22 小普請金代米 201 0.13
高岡
神領米,吉例金 200 12,000 0.64 小納戸金(5月~9月分) 200 12,000 0.64
高岡
神領上納滞金
通史編2(近世1)
(高照神社「御告書付」の開始)
創始者の吉川惟足(よしかわこれたり)(従時(よりとき)、一六一六~一六九四)に師事して奥義を極め、「
高岡
霊社,」の神号を授けられた人物であり、生前から葬地として決めていた
高岡
の地に埋葬された。
資料編1(古代・中世編)
(一 堀越城の立地と現状)
されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽為信が大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年(一六一一)、二代信枚が
高岡
城
通史編3(近世2)
(信政)
宝永七年(一七一〇)、遺命により岩木山麓の
高岡
霊社(たかおかれいしゃ)(現高照神社)に、北川新次郎が導師
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
堀越城は、文禄三年(一五九四)の大浦城からの移転後、慶長十六年(一六一一)に二代信枚(のぶひら)が
高岡
城
資料編1(古代・中世編)
(二 大浦城の歴史)
その後も大浦城は、堀越・
高岡
(弘前)城の支城として存続したが、元和元年(一六一五)の「一国一城令」によって
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長八年(一六〇三)、この年、
高岡
に町屋派立を命じる。,八幡宮を
高岡
の丑寅の方角へ移転させる。,●元和三年(一六一七)、この年、津軽信枚、
高岡
城内に東照宮を勧請する。,●元和九年(一六二三)八月、津軽信枚、
高岡
神明宮に棟札を奉納する。,●寛永五年(一六二八)八月二十日、この日より
高岡
を弘前と称したという。
通史編3(近世2)
(二代信枚)
二代信枚 信枚は、慶長十五年(一六一〇)に
高岡
(たかおか)(現弘前市)に築城を開始すると、城下町形成
通史編2(近世1)
(参勤交代路と街道の状況)
時代が下ると、「要記秘鑑」の享和三年(一八〇三)三月二十五日条に、
高岡
街道(百沢街道のこと)の内駒越村領内
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
信枚時代の最大の事業は、慶長十五年(一六一〇)に幕府検使の検分を得て
高岡
に築城をし、翌十六年に城下の町割,
高岡
への町屋派立は、為信時代の慶長八年(一六〇三)に命じられているが(同前No.一七九・一八〇)、実際
通史編2(近世1)
(青森町の成立と青森開港)
また右の町づくりの下命のほかに、外浜中の商人船を青森へ集中させ、
高岡
(たかおか)(当時の弘前の地名)の,このように青森の都市形成は藩主導でなされ、城下町
高岡
と同様の特権を町人へ認めることで、町方の建設をさらに
通史編2(近世1)
(新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)
………… 165 三 初期新田開発の展開 ………………………………………… 175 第三節
高岡
築城,と城下町の成立 …………………………………… 182 一 築城と都市
高岡
の形成 ……………………
通史編3(近世2)
(藩政後期)
これに対し、
高岡
霊社(現高照神社)祭司役後藤兵司(ごとうへいじ)は藩主から寄進された寺社禄を取り上げたことを
資料編1(古代・中世編)
(六 板碑の調査・研究史)
岩木町新法師の板碑 「やをら
高岡
を出でて新法師の村のかた岨に、高館の城のあるじ、なにがしの塚の石ぶみは
通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(一六一一)に二代信枚が
高岡
城
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
津軽氏が居城を大浦城から、文禄三年に堀越城、慶長十六年に
高岡
城へと移転させ、南部氏も居城を三戸城から、
資料編1(古代・中世編)
(二 本章で取り上げる中世城館跡)
そして、③の堀越城は、為信の津軽統一後、二代信枚が
高岡
(弘前)城に移るまでの十七年間、津軽氏の本拠だった
資料編2(近世編1)
(【解説】)
具体的には、城下
高岡
(たかおか)(後の弘前)をはじめとする領内各都市の建設、農村支配の形成、知行充行に
通史編3(近世2)
(金木屋の生活)
十八日、鰺ヶ沢の〓菊屋が午前十一時すぎ訪宅、百沢(ひゃくざわ)へ参詣後(
高岡
霊社(たかおかれいしゃ)・
通史編3(近世2)
(二 藩主の日常生活)
午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――来年
高岡
霊社(たかおかれいしゃ)(,十二日、正午に款冬(かんとう)ノ間で家老添田儀左衛門(そえだぎざえもん)と会い、来年正月の
高岡
霊社(現高照神社
資料編2(近世編1)
(【解説】)
諏訪門兵衛の記事は、同社の祭司役後藤兵司が、乳井貢に対して極めて批判的な立場から宝暦改革の顚末を記録した「
高岡
霊験記
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