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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(二度の高直り)
二度の
高直り
文化二年(一八〇五)五月、九代藩主津軽寧親(やすちか)は、領知高四万六〇〇〇石が七万石,七万石の時と同様、
高直り
の一〇万石には領地の拡大はなく、これまでどおり、津軽郡一円の領知であった。,藩主寧親は、一〇万石への
高直り
を機会に、弘前城天守の再興を企図した。 / 二度の
高直り
資料編3(近世編2)
(第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)
二 化政期藩政の動向と黒石藩 (一)廃田・新田開発の展開 (二)国産の奨励 (三)文化の
高直
,
り
(四)相馬大作事件 (五)黒石藩の成立 三 天保の飢饉とその後の藩政 (一)天保
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
この後津軽家は二度の
高直り
を受け、文化二年(一八〇五)五月に七万石、同五年(一八〇八)十二月一〇万石の,この
高直り
後最初に発給された天保十年(一八三九)の徳川家慶領知判物で、津軽郡の村数が三〇八ヵ村となり、,図53.天保10年の領知目録 ただこの二度の
高直り
の際、領知宛行状が何らかの形で発給された形跡,しかし、文化五年の際同時に
高直り
を受け二〇万石の領知高となった南部家の場合、幕府に領知宛行状の発給について,の領知高が一〇万石とされたことについて、さまざまな史料をもとにその根拠が論じられてきたが、文化五年に
高直
通史編2(近世1)
(弘前藩の副藩主)
への移行は、蝦夷地警備という大前提の中で、幕府からの公役遂行のために、寧親の本藩襲封とそれに続く本藩
高直
,
り
を契機として、弘前・黒石両藩の一体化が図られることによって生じたのであった。
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
これは、蝦夷地警備の負担や一〇万石
高直り
など一連の動きと関係したものであった。
通史編3(近世2)
(幕末期近衛家との関係)
近衛家が津軽家を庶子と認めたのは、文化年間の一〇万石への
高直り
に伴って官位と家格が上昇したことに原因があり
資料編3(近世編2)
(3 現存する天守・城門等の考察)
功績によって七万石に直され、また、文化五年(一八〇八)十二月には、蝦夷地警衛の功によって、一〇万石への
高直
,
り
があった。
資料編2(近世編1)
(【解説】)
領知朱印と家譜家系」と題して、幕府から津軽家へ下付した領知朱印状と領知判物(はんもつ)(文化五年に十万石へ
高直
,
り
してからは、朱印状ではなく判物が下付された)を、また陽明文庫所蔵の津軽家の家譜家系、四代藩主信政と関白近衛基煕
通史編2(近世1)
(負担の増大による民衆の困窮)
高直り
によって、七万石、さらに一〇万石となっていくが、それに伴う領地の加増がないことから、軍役負担の増加
通史編3(近世2)
(一〇代信順の治世)
図40.轅輿(えんよ)の図 文化五年(一八〇八)十二月、表高一〇万石に
高直り
した当藩では、家格
資料編3(近世編2)
(【解説】)
廃田・新田の復興・開発に本格的に取り組むとともに、国産奨励策を積極的に進めていったこと、および、文化の
高直
,
り
とそれにともなう津軽黒石藩の成立について扱った。 ,文化の
高直り
は、この継続する蝦夷地警備への功によって領知高が文化二年(一八〇五)に七万石に、さに文化五年,なお、第一節、第二節で掲げた藩財政の窮乏、民衆の一揆、寛政改革、文化の
高直り
と黒石藩の成立などの背景に
通史編2(近世1)
(新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)
…… 563 一 蝦夷地直轄下の警備と民衆 …………………………………… 563 二 文化の
高直
,
り
と黒石藩の成立 ………………………………… 583 三 蝦夷地引き揚げと沿岸警備 …………………
資料編3(近世編2)
(新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)
国産の奨励 …………………………………………………………………………… 一五一 (三)文化の
高直
,
り
………………………………………………………………………… 一五三 (四)相馬大作事件 ……
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