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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(鰺ヶ沢1~12)
鰺ヶ沢
1~12
鰺ヶ沢
1 西
鰺ヶ沢
町種里町字大柳-種里城跡-
鰺ヶ沢
2 西
鰺ヶ沢
町種里町字大柳-種里城跡,-
鰺ヶ沢
3 西
鰺ヶ沢
町種里町字大柳-臥竜院墓地-
鰺ヶ沢
4 西
鰺ヶ沢
町日照田町字野脇-地蔵堂前-,
鰺ヶ沢
5 西
鰺ヶ沢
町日照田町字野脇-地蔵堂前-
鰺ヶ沢
6 西
鰺ヶ沢
町日照田町字野脇-一本松の下-,
鰺ヶ沢
7 西
鰺ヶ沢
町赤石町字宇名原-松源寺境内-
鰺ヶ沢
8 西
鰺ヶ沢
町赤石町字宇名原-松源寺境内,-
鰺ヶ沢
9 西
鰺ヶ沢
町赤石町字宇名原-松源寺境内-
鰺ヶ沢
10 西
鰺ヶ沢
町田中町-無量庵墓地- /
鰺ヶ沢
1~12
通史編3(近世2)
(公娼と私娼)
沢
(現西津軽郡
鰺ヶ沢
町)が挙げられる。,(しうらむら)〉を経由して、岩木川筋の米を
鰺ヶ沢
に送る輸送機構)が確立してから港の繁栄をみるようになった,遊廓は元禄以前には浜町(はままち)にあったといわれ、元禄十六年(一七〇三)の「
鰺ヶ沢
絵図」には「新地町, 一九八四年
鰺ヶ沢
町刊)。 ,しかし、寛文十二年に「十三小廻し」体制が確立してからは、岩木川水運と
鰺ヶ沢
の中継地にすぎなくなった。
通史編5(近・現代2)
(景気回復後の弘前市の商業)
南郡,北郡,市周辺 陶器 A 黒石,大鰐,浪岡,七和,鶴田,金木,車力,深浦,
鰺ヶ沢
,五所川原 40%,繊維製品 A 秋田県北郡,鷹巣,尾上,碇ヶ関 B 市周辺,黒石,浪岡,青森,
鰺ヶ沢
,五所川原,木造,食料品 A 船沢,相馬,目屋,大鰐,水木,吉田 B
鰺ヶ沢
,五所川原,大鰐,黒石,相馬,船内,五能線沿線, C 西,南,北の各郡,
鰺ヶ沢
,五所川原,陣場,鷹巣,大館 理髪美容具品 A 他県には殆どでない,,県内では青森,金木,深浦,八戸 家具類 A 弘前市周辺が大部分,
鰺ヶ沢
,大館,新域等まで 前掲
通史編2(近世1)
(岩木川舟運)
これらの物資は十三湖周辺の小型船によって、七里長浜沖を南下、
鰺ヶ沢
湊(現
鰺ヶ沢
町浜町)まで廻漕され、そこから,小蔵の実態は不明であるが、寛文年間には、御蔵は弘前・三世寺・板屋野木・
鰺ヶ沢
・十三・青森(現青森市米町,これらの御蔵に集められた年貢米は、
鰺ヶ沢
へ集められ、換金のため大坂に送られた。,寛文四年(一六六四)十二月六日付の弘前御蔵奉行宛ての布達によれば、
鰺ヶ沢
へは米三斗入り一俵について京升,少し時代は下がるが、元禄四年(一六九一)に
鰺ヶ沢
に陸路で運ばれた年貢米が四万五〇〇〇俵余であったのに対
資料編1(古代・中世編)
([付図])
沢字塩見形 薬師堂境内 32~73 深浦町関字栃沢 甕杉下 74 深浦町関字栃沢 (深浦町歴史資料館保管)
鰺ヶ
,
沢
1・2
鰺ケ沢
町種里町字大柳 種里城跡 3
鰺ケ沢
町種里町字大柳 臥竜院墓地 4・5
鰺ケ沢
町日照田町字野脇,地蔵堂前 6
鰺ケ沢
町日照田町字野脇 一本松の下 7~9
鰺ケ沢
町赤石町字宇名原 松源寺境内 10,
鰺ケ沢
町田中町 無量庵墓地 11
鰺ケ沢
町舞戸町字鷲見 館の地蔵堂横 12
鰺ケ沢
町舞戸町字鷲見 斉藤
通史編2(近世1)
(西廻海運と領内の整備)
つであるが、これは、岩木川流域の津軽の穀倉地帯からの米穀が、舟運(しゅううん)で十三湊に集荷され、海上を
鰺ヶ
,
沢
に廻漕される体制のことである(北見俊夫『日本海上交通史の研究―民俗文化史的考察―』一九八六年 法政大学出版局刊,そして、これが緒(ちょ)についたのは、
鰺ヶ沢
に町奉行が設置された元和期であると思われる(渡辺前掲書)。,また、
鰺ヶ沢
は、西廻海運と藩経済の結節点としての位置を得ることになり、
鰺ヶ沢
町人が上方廻米船の上乗人に
通史編3(近世2)
(瓦の移入)
移入ルートは上方から海路日本海を北上して
鰺ヶ沢
に着岸、ここでいったん荷揚げのうえ、藩庫に収納され、小廻,しで十三へ廻送されたが、十三への廻送は主に十三から
鰺ヶ沢
への米積み舟の帰路を利用した。
通史編2(近世1)
(青森以外の町の騒動)
青森と並ぶ津軽領の主要港である
鰺ヶ沢
でも、七月二十二日に廻米の停止、米留番所の廃止、小売り米の値下げ(,
鰺ヶ沢
の場合、一匁につき一升五合)を求めて、町人が徒党を組み名主方へ押しかけて、町奉行へ強訴を要求する,青森者と南部者三〇〇〇人が昨夜五所川原で鶴屋・飛嶋両家を潰し、さらに木作(現西津軽郡木造町)を通過して、
鰺ヶ
,
沢
に『家潰』に押し寄せようとしている」という流言の飛んだことが「国日記」に記載されている(資料近世2No
通史編2(近世1)
(陸上交通網の整備)
されているのは、表現に若干違いはあるものの、①秋田領境之明神堂(さかいのみょうじんどう)~大間越~深浦~
鰺ヶ
,①は当時の参勤交代路である西浜街道(
鰺ヶ沢
街道)と、羽州街道の弘前~油川間と、奥州街道の油川~狩場沢間,大道小道帳では磯辺道として
鰺ヶ沢
~十三~竜飛(たっぴ)~三厩(みんまや)~蓬田~油川が一本の道として扱,われているが、道程帳では
鰺ヶ沢
~小泊間と油川~竜飛間が浜道として二本に分けられて記載されている。,
鰺ヶ沢
~小泊間は十三街道、油川~蓬田~三厩間は蝦夷地へ渡る奥州街道の延長部(松前街道)として考えられるので
通史編2(近世1)
(樋口善兵衛の報告書)
当時、津軽領内ではこうした見方が支配的であったのであろうか、六月末ころには「
鰺ヶ沢
米十万俵余御払相成候,」(「平山日記」)と、
鰺ヶ沢
から一〇万俵もの米(前年度米)が移出される。,そのため、六月十二日には一俵一七匁八分であった
鰺ヶ沢
の米価が、七月はじめには二一匁、七月九日には二三匁
通史編1(古代・中世)
(有間浜の所在)
については、話の展開などから考えて、齶田浦からある程度北上した、おそらく西津軽郡深浦(ふかうら)町か
鯵ヶ
,
沢
(あじがさわ)町あたりの津軽半島西海岸のうちに比定するのが自然であろう。,西海岸には比羅夫来航伝説とも関わる日和山が、深浦(写真32)にも
鯵ヶ沢
(写真33)にもある。,写真32 深浦町・日和山 写真33
鯵ヶ沢
町・日和山 写真34 深浦町・吾妻浜
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
それに基づいて、二代目の田中九兵衛も津軽へ進出し、深浦・
鰺ヶ沢
・十三の各湊へ入津している(和泉清司「近世,津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に青森・
鰺ヶ沢
・深浦等の湊も
通史編2(近世1)
(家中払米の展開)
鰺ヶ沢
からは上方への家中払米(かちゅうはらいまい)の積み出しが多いのであるが、寛文三年には
鰺ヶ沢
からも,同年五月十三日付の野呂善左衛門の
鰺ヶ沢
沖口出米願書(同前No.八〇六)は、野呂の知行米一二〇石を松前へ,同年十月十八日付の浅川猪左衛門・関伝右衛門の
鰺ヶ沢
沖口出米願書(同前No.八〇七)は、浅瀬石村の惣右衛門,このように、青森をはじめとして
鰺ヶ沢
・小泊・十三湊など領内の各湊から松前へ藩士の米が家中払米として積み
資料編1(考古編)
(2.13世紀の様相)
重要な資料であり、浪岡町出土瀬戸瓶子・珠洲四耳壺(図6-2)、田舎館村出土珠洲系四耳壺(図7-1)、
鰺ヶ
,
沢
町種里周辺出土珠洲経容器(図7-2)、弘前市荼毘館出土渥美甕などは主に宗教容器として搬入されているところに,7 陶磁器写真・実測図(3) 1田舎館村出土珠洲系四耳壺(田舎館村歴史民俗資料館蔵) 2
鯵ヶ
,
沢
町出土珠洲経容器(個人蔵)
通史編1(自然・原始)
(北麓~東麓)
大鳴沢および赤倉沢流域には、標高五〇〇~六〇〇メートル付近を扇頂部とする火山麓扇状地が展開し、面上には
鯵ヶ
,
沢
スキー場が位置している(口絵)。,扇端部の高度は一五〇~二〇〇メートルであって、
鯵ヶ沢
町長平が位置している。
資料編2(近世編1)
(第一節 領内支配と支配機構の整備)
軍役の整備 四 家臣団の形成 五 家中払米の展開(旧八木橋氏所蔵) (一)青森 (二)
鰺ヶ
,
沢
(三)小泊 (四)十三 六 地方知行の状況 (一)知行充行状の下付 (二)知行帳
通史編2(近世1)
(津軽地域の確保と蝦夷荒)
図3.戦国末期津軽地方の城館分布 また、現西津軽郡の海岸一帯に当たる西浜地域では、中村(現
鰺ヶ
,
沢
町)で「狄蜂起(えぞほうき)」が起こり、天正九年(一五八一)三月に鎮圧されたと伝えられる(「由緒書抜,
鰺ヶ沢
は、西浜の重要な湊であり、このころまでには夷島への通路としても機能していたと思われ(資料古代・中世,No.一〇二五)、大浦氏は
鰺ヶ沢
を確保することによって、日本海交易に参加するための道を開いた。
通史編1(古代・中世)
(種里城と町)
種里城と町 明応元年(一四九二)、現在の
鰺ヶ沢
町種里町に西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏に備えて,
鯵ヶ沢
町種里周辺には、板碑や五輪塔などが散在しており、そのようなことから光信が種里に入る以前の段階には,図61
鯵ヶ沢
町種里城跡検出掘立柱建物跡の平面図 その北西側に位置するⅡa曲輪は、斜面に何段もの,図62 種里城跡縄張り図(
鯵ヶ沢
町) また、伝承として残っていた「伝侍屋敷」と呼ばれる主曲輪の
通史編3(近世2)
(鳳松院)
鳳松院 鳳松院(ほうしょういん)は、慶長四年(一五九九)、種里(たねさと)村(現西津軽郡
鰺ヶ沢
町)に
資料編2(近世編1)
([付図])
慶安元年(市立函館図書館蔵) 六、奥州深浦之図・慶安元年(市立函館図書館蔵) 七、陸奥
鰺ヶ
,
沢
之図・寛文二年(市立函館図書館蔵)
通史編2(近世1)
(海防報告書にみる天保期の海防体制)
沢村浦番所 2 1 金井ヶ沢村大筒台場 3 2
鰺ヶ
,
沢
1 2 4 7 2 8
鰺ヶ沢
大筒台場 3 2 長浜寄物番所,大間越・深浦・
鰺ヶ沢
・十三・今別(現東津軽郡今別町)・蟹田・青森・野内(現青森市野内)といった領内の主要地,
沢
10 25
鯵ヶ沢
台場 3 十 三 10 15 十三台場 3 小泊浦番所,大筒台場は、大間越・深浦・金井ヶ沢・
鰺ヶ沢
・十三・小泊七ツ石崎・龍浜崎・袰月浦鷹野崎・蟹田・青森の各所
通史編3(近世2)
(人家の火災)
木作村(現西津軽郡木造村)九六軒、同二十八日舞戸(まいと)村・田浦(たうら)村(両村ともに現西津軽郡
鰺ヶ
,
沢
町)九七軒、四月十四日深浦町(現西津軽郡深浦町)四五~六軒の焼失があった(前掲『津軽史事典』)。,天保4年4月7日条 火の用心の徹底 天保4年3月18日
鰺ヶ沢
七ッ石町26軒焼失・柳久保村28軒焼失。,天保5年4月16日条 火の用心の徹底 天保5年2月17日
鰺ヶ沢
町185軒焼失。
資料編2(近世編1)
(【解説】)
、八木橋文庫、旧八木橋文庫蔵史料、弘前藩庁日記(国日記)などの日記類、青森県立図書館所蔵の瀧屋文書、
鯵ヶ
,津軽領の湊は、青森・
鯵ヶ沢
の両湊が中心であり、城米は直接両湊へ駄送したほか、岩木川舟運を経て、十三(とさ,)で積み替えて
鯵ヶ沢
湊へ回漕する、いわゆる「十三小廻(とさこまわ)し」の態勢がとられ、同湊で西廻り海運,十七世紀後半から幕末に至るまでの、西廻り海運や東廻り海運における商品流通の実態を示す史料を中心に、青森や
鯵ヶ
,
沢
の廻船問屋史料なども掲げた。
資料編2(近世編1)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
青森県立郷土館(青森県青森市) 青森県立図書館(青森県青森市) 秋田県公文書館(秋田県秋田市)
鰺ヶ
,
沢
町教育委員会(青森県
鰺ヶ沢
町) 岩手県立図書館(岩手県盛岡市) 岩手県立博物館(岩手県盛岡市)
通史編1(古代・中世)
(擦文文化圏との交易)
一〇世紀中葉から一一世紀初頭の鉄生産遺跡として知られる
鯵ヶ沢
町杢沢(もくさわ)遺跡(図19)では、半地下式竪形炉,図19 製鉄炉を営む工人集団の集落跡(
鰺ヶ沢
町杢沢遺跡) 写真57 大川遺跡の漆器 (北海道余市町
通史編5(近・現代2)
(反対運動の展開)
ここで批判を受けた秋田県藤里町を経由する秋田工区のルートが
鰺ヶ沢
町の町民に知らされぬまま付け替えられ、,しかも、青森県は
鰺ヶ沢
ルートに同意する意見書を青森営林局に提出し、青秋林道予定地では着工許可前にブナなど
資料編1(考古編)
(40.出来島段丘堆積物Ⅵ)(できしまだんきゅうたいせきぶつ))
車力村牛潟、
鰺ヶ沢
町川尻など屏風山地域に分布する標高10m前後の段丘を構成する。
通史編3(近世2)
(海蔵寺)
海蔵寺 海蔵寺(かいぞうじ)は、明応年間(一四九二~一五〇〇)、江山が開山となり、種里村(現西津軽郡
鰺ヶ
,
沢
町)に創建された。
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
青森へ馬廻組頭(表書院大番頭)西館宇膳(にしだてうぜん)を士大将とする一手五五人を派遣し、また三厩・
鰺ヶ
,
沢
・深浦・十三にも物(者)頭一手(物頭と中小姓・留守居組のうちから一手一〇人宛)の固めの人数を配置した,)浦(現西津軽郡岩崎村大間越)・深浦(現同郡深浦町深浦)・金井ヶ沢(かねがさわ)(現同町北金ヶ沢)・
鯵ヶ
,
沢
浦(現同郡
鰺ヶ沢
町)・十三浦(現北津軽郡市浦村十三)・蟹田(かにた)(現東津軽郡蟹田町蟹田)・青森浦,1 2 5艘 七ツ石崎 (小泊) 3 5 1 1 2 十 三 3
鰺ケ
通史編1(古代・中世)
((五)発掘調査から見た遺跡)
当市域においては石川城跡の内館部分や福村城跡の堀跡が発掘調査され、また大浦氏に関係した城館跡としては、
鯵ヶ
,
沢
町種里城跡の主曲輪や岩木町大浦城跡二ノ丸部分の発掘調査も行われている。
通史編5(近・現代2)
(青秋林道建設計画)
本県からは岩崎村(現深浦町)、
鰺ヶ沢
町、西目屋村の三町村長と議会正副議長、関係各常任委員長が出席した。,計画路線では
鰺ヶ沢
町の奥赤石川林道と結ばれ、一方、岩崎村でも大間越の津梅川林道の延長によって青鹿林道(
通史編2(近世1)
(天明三年に頻発した騒動)
天明の飢饉の直前、天明三年(一七八三)七月、津軽領では、藩最大の湊町であった青森をはじめとして弘前・
鰺ヶ
,
沢
などの城下町や湊町で、打ちこわしや騒動が相次いで発生した。
通史編3(近世2)
(瀬戸師五郎七)
瀬戸師五郎七 五郎七は天保三年(一八三二)、筑前の瀬戸座から、当時毎年のように
鰺ヶ沢
や青森に着岸していた
通史編2(近世1)
(糧米確保)
藩では、七月十二日に青森・
鰺ヶ沢
の両浜口を留めたと伝えられる(「平山日記」)。,また、「国日記」によると、七月十三日に、青森・
鰺ヶ沢
・十三・今別・蟹田・深浦・野内に対して、米価が高騰,こうした津留(つどめ)政策(松前へは条件付きで対象外となった)は、すでに六月に
鰺ヶ沢
から米が移出された,単位は匁) 8月15日 8月23日 弘前 50.0(20.0) 43.4(18.0) ― ―
鰺ヶ
,松前藩は再度申し入れるが、八月二十九日に、青森・
鰺ヶ沢
の米改めを行い、全面的な移出禁止を伝えることになった
資料編1(古代・中世編)
(協力者及び協力機関一覧(敬称略))
青森県立郷土館(青森県青森市) 秋田県公文書館(秋田県秋田市) 秋田市立中央図書館(秋田県秋田市)
鰺ヶ
,
沢
町教育委員会(青森県)
鰺ヶ沢
町郷土文化保存伝習館(青森県) 田舎館村村誌編さん委員会(青森県)
資料編1(古代・中世編)
(一 大浦城の立地と現状)
城跡の南を、弘前から岩木山麓を経て
鰺ヶ沢
へ向かう旧百沢街道(主要地方道弘前・岳・
鰺ヶ沢
線)が通過しており
通史編3(近世2)
(振舞)
宝暦五年(一七五五)十二月三日条にみえ、運送方(うんそうがた)の者たち(農村の者のほかに弘前・青森・
鰺ヶ
,
沢
(あじがさわ)・深浦(ふかうら)・十三(とさ)〈現北津軽郡市浦村(しうらむら)〉の町人の名前がみえ(
資料編1(考古編)
(64.山田野層Ⅶ)(やまだのそう))
模式地は、
鰺ヶ沢
山田野付近。
通史編3(近世2)
(清安寺)
清安寺 清安寺(せいあんじ)は、天正二年(一五七四)、長勝寺三世密田が赤石村(現西津軽郡
鰺ヶ沢
町)に
通史編2(近世1)
(大浦城の構造)
北を岩木山に源を発する後長根(うしろながね)川が流れて外堀の機能を果たし、南は弘前から岩木山麓を経て
鰺ヶ
,
沢
へ向かう旧百沢(ひゃくざわ)街道(主要地方道弘前岳
鰺ヶ沢
線)が貫通している(以下、資料古代・中世第三節
通史編1(古代・中世)
(種里城を中心とした城館群)
街道としては、種里から小森(現
鰺ヶ沢
町大字小森町)→恩沢→黒森→松代(現
鯵ヶ沢
町大字松代町)→岳(現岩木町大字常盤野
通史編1(自然・原始)
(一 弘前市の位置および外形)
とこしない)および長前(ちょうまえ)付近の、北緯四〇度四五・五分、東経一四〇度二〇・二分で、西津軽郡
鯵ヶ
,
沢
町と森田村、北津軽郡鶴田町に隣接し、長前川流域および廻堰(まわりぜき)大溜池南岸で境している。,れる鳴沢(なるさわ)川(源流部は大鳴沢)流域の北緯四〇度四三分、東経一四〇度一七・四分であり、西津軽郡
鯵ヶ
,
沢
町と隣接する。
通史編3(近世2)
(大円寺)
大円寺縁起」(資料近世2No.四一一)によると、文亀年間(一五〇一~〇三)に、種里村一ツ森麓(現西津軽郡
鰺ヶ
,
沢
町)に大円房が創建した。
通史編1(自然・原始)
(屏風山)
屏風山 日本海に面した
鯵ヶ沢
町から北部の十三湖にかけては、七里長浜(しちりながはま)と呼ばれる単調な
資料編1(考古編)
((2)文字資料と文字文化)
11 「父」 〃 〃 〃 〃 (26溝) 〃 〃 12 「〓」 杢沢遺跡 〃
鰺ヶ
,低地集落) 須恵器長頸壺 〃 6 サ 〃 〃 〃 〃 〃 7 H 杢沢遺跡 西津軽郡
鰺ヶ
,須恵器坏 10世紀前半 10 十 〃 〃 〃 〃 〃 〃 11 田 杢沢遺跡 西津軽郡
鰺ヶ
,幸 発茶沢(1)遺跡 上北郡六ヶ所村鷹架字発茶沢 〃 須恵器壺 〃 24 〓 杢沢遺跡 西津軽郡
鰺ヶ
,〃 〃 32 〓 朝日山遺跡 青森市大字高田 遺構外 土師器坏 〃 33 〓 杢沢遺跡 西津軽郡
鰺ヶ
資料編1(考古編)
(協力機関及び協力者一覧)
センター 青森県立郷土館 青森市教育委員会 八戸市教育委員会 八戸市博物館 黒石市教育委員会
鰺ヶ
,
沢
町光信公の館 浪岡町中世の館 尾上町教育委員会 板柳町教育委員会 平内町歴史民俗資料館 野辺地町歴史民俗資料館
通史編1(古代・中世)
(大浦氏関係の中世城館跡)
大浦氏関係の中世城館跡
鯵ヶ沢
町種里城跡や岩木町大浦城跡などは開発に伴う発掘調査が行われている。
資料編1(古代・中世編)
(七 板碑の発見と保護の状況)
西津軽郡深浦町風合瀬(晴山) 二基 西津軽郡深浦町関 一基 西津軽郡
鯵ヶ沢
町舞戸町 一基,
鯵ヶ沢
町種里城跡の板碑が二度移転したことは既に述べたが、近年弘前市細越の五十嵐氏地所の春日堂内の板碑二基
通史編2(近世1)
(民兵の登場)
(広須・木造新田)・赤石組の各代官、および九浦のうち碇ヶ関を除く八浦(野内・青森・蟹田・今別・十三・
鰺ヶ
,
沢
・深浦・大間越)の各町奉行へ民兵の編成を通達し、翌年二月までに、海岸の村々で約一〇〇〇人、八浦で約二,
鰺ヶ沢
では三一七人が動員されるが、うち五七人が船手とされた。
通史編2(近世1)
(御用金の賦課)
七七三貫余の融資を行った同年に、藩は「時節柄難儀であろうと、気の毒に思っている」と断りながらも、弘前・青森・
鰺ヶ
,
沢
の分限者五三人に計五四〇〇両、在方二七人に計八三三〇両の御用金の賦課を命じた。,また、安永八年には弘前に一二〇〇両、青森に五〇〇両、
鰺ヶ沢
に三〇〇両のほか在方を含めて都合三〇〇〇両の
/ 4ページ