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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(東西蝦夷地直轄下の勤番体制)
東西蝦夷地直轄下の勤番体制 文化四年三月の松前および西蝦夷地の上知決定に伴い、翌四月、津軽弘前
藩
は盛岡
藩
,今回の増援要請は津軽弘前・盛岡両
藩
以外にもなされ、秋田・
鶴岡
両
藩
も出兵している。,四
藩
の総動員数は三〇〇〇人を超えたとされる。,翌五年には秋田・
鶴岡
両
藩
に代わって仙台
藩
と会津
藩
が出兵し、四
藩
の総動員数は四〇〇〇人に及んだという。,当
藩
の蝦夷地警備はこうして文政五年に一応のピリオドを打つことになる。
通史編3(近世2)
(捕虜となった庶民)
捕虜となった庶民 「弘前
藩
記事」(弘図八)は主に慶応三年(一八六七)から明治四年(一八七一)の出来事,同五日にこの部隊は
鶴岡
(庄内)
藩
兵と期せずして遭遇戦を展開し、隊長成田以下一〇人が戦死、一一人が負傷して,それから今之助は四日かけて縄つきのうえ
鶴岡
城下に連れて行かれ、牢屋に入れられた。,その後、九月十三日にはその処分も解除され、十月二十三日にようやく弘前に帰り着き、すぐに
藩
に顛末(てんまつ,)を届け出たのである(「弘前
藩
記事」明治元年十月二十四日条)。
通史編3(近世2)
(庄内戦争の結末)
庄内戦争の結末 再び秋田
藩
の南境に目を転じると、新庄落城後、山道より秋田へ向けて進攻していた庄内
藩
は,総督軍の迅速な軍備や人員・物資の補給や活動によって、とうとう八月二十八日、角館を攻めた庄内
藩
は、西南諸
藩
,応援兵の参戦とともに、薩摩
藩
の軍艦春日丸が秋田
藩
の援護に導入されたことが大きかった。,同日庄内
藩
兵は
鶴岡
に向けて総退却を開始し、九月二十七日、正式に降伏を表明する。,既に九月十五日には仙台
藩
も降伏をしており、庄内
藩
としても孤立した中での戦争続行は不可能であった。
通史編3(近世2)
(庄内征討応援命令)
四月六日、秋田
藩
に庄内(
鶴岡
)
藩
征討命令が出されたが、弘前
藩
も決して無関係ではいられなかった。,内容は、庄内
藩
の罪状確認であるが、これについては弘前
藩
も承知のうえのことであったろう。,この事件は、慶応三年十二月二十五日に起こった庄内
藩
による薩摩
藩
邸砲撃事件のことである。,さらに庄内
藩
屯所への発砲事件などがあり、関東見廻役に任じられていた庄内
藩
が江戸薩摩
藩
邸砲撃を実行したのであった,新政府に積極的な態度を示していた秋田
藩
も、庄内
藩
の罪状の不透明さにためらいをみせたのであるから、弘前
藩
通史編3(近世2)
(戦局の推移と戦費負担の増加)
閏四月、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)の命により
鶴岡
(庄内)
藩
討伐応援として秋田方面に総勢二,〇〇〇人以上の動員計画がなされ、七月に
藩
論が勤皇に統一されてからは、挙
藩
体制での
鶴岡
藩
討伐が行われ、同
藩
,
藩
名
藩
兵人数 夫卒人数 計 1 鹿児島
藩
263 263 2 山口(長州,)
藩
694 694 3 水戸
藩
226 226 4 津
藩
165 165,福山(備後)
藩
609 609 8 徳山
藩
252 252 9 大野
藩
通史編3(近世2)
(大政奉還時の状況)
孤清(こせい)と名のり、翌三年の帰田法など
藩
の重要政務を担当した)と同役赤石礼次郎であろう。,これは蝦夷地警備・京都守衛・時局緊迫に対応する国元の軍事費増大によるもので、ここからも
藩
財政の窮乏が判明,到着直後の十一月に赤石が世話した
藩
として仙台・肥後・秋田・米沢・柳川・前橋・会津・二本松・庄内(
鶴岡
),これは幕府による長州戦争失敗後、長州
藩
主に官位復旧と同
藩
兵力の入京差し止めを解除するための措置であり、,事態は緊急の極みにあり、飛鳥井・日野両卿は弘前
藩
一
藩
の決議が遅れると全体が進まなくなるとして、怒気をあらわに
通史編3(近世2)
(戦局の展開と兵員の不足化)
奥羽列
藩
同盟形成を強く主張していた仙台
藩
や米沢
藩
、朝敵とされた会津
藩
や
鶴岡
藩
等は周辺の勤皇諸
藩
に進攻を,開始し、弘前
藩
も八月五日に先行部隊が羽州(うしゅう)矢島領で庄内
藩
兵と衝突し、足軽頭成田求馬以下九人の,一方、北奥羽では同盟側に立った盛岡
藩
が隣の秋田
藩
に猛烈な勢いで攻め込んでいた。,ことにその戦場が大館(おおだて)近辺で展開されていただけに、
藩
首脳としては、盛岡
藩
の攻撃がやがて津軽領,さらに、この時期の弘前
藩
にとって厄介(やっかい)だったのは、盛岡
藩
が野辺地(のへじ)(現上北郡野辺地町
通史編3(近世2)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
中央公論社刊 45 山上笙介『ふるさとのあゆみ 弘前Ⅰ』18頁 1980年 津軽書房刊 46 弘前
藩
記事, 弘前市立図書館蔵岩見文庫 57 鶴ヶ岡ヨリ松前海道津軽青森江出箱舘江渡海蝦夷地宗谷迄道中絵図明細記
鶴岡
市郷土資料館蔵原家文書,国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 165 弘前市立図書館蔵岩見文庫 166 弘前市立博物館蔵 167 山形県
鶴岡
市,幕末維新期における宗教と地域社会』211頁 1997年 清文堂刊 表32 作成 表33 黒瀧十二郎『津軽
藩
政時代,の生活』157~158頁 1993年 北方新社刊 表34 黒瀧十二郎『弘前
藩
政の諸問題』266頁 1997
通史編2(近世1)
(安政期の蝦夷地警備と交通問題)
津軽弘前
藩
にとって嘉永末年から安政年間(一八五四~六〇)にかけ、最大の外交問題は南下政策をとるロシアに,そして蝦夷地の警備は箱館奉行の指揮下、弘前・盛岡・秋田・仙台・会津・
鶴岡
の東北諸
藩
と松前
藩
により分担されることとなった,当然、これらの陣屋建設や
藩
兵配置には膨大な費用がかかったので、幕府は警備負担の見返りとして警備地に隣接,しかし、津軽弘前
藩
がたとえば領内の労働人口移動をたやすく容認していたとみるのは誤りである。,危機感を増大させた
藩
では、続く文久年間に入ると領内の人口把握を強化した。
通史編3(近世2)
(戦場に駆り出された民衆)
一例を挙げると、明治元年四月二十二日に発令された
鶴岡
(庄内)
藩
討伐応援部隊一大隊の総勢は五八〇人であったが,結集したのは箱館総攻撃に際してであったが、『津軽承昭公伝』では明治二年四月時点で各地に展開していた弘前
藩
兵,同書は弘前
藩
の維新に対する功績をやや過大に述べる傾向があるので、この数値が正確なものかどうかはなお他の,表15は弘前
藩
が戊辰戦争で出した戦死者の内、明治二年六月の招魂祭(しょうこんさい)で祀られた者の一覧であるが,
藩
は招魂祭執行に際して姓を名のることを許し、毎年祭事料として米五俵を下賜した。
資料編1(古代・中世編)
(出典・典拠一覧(第一章・第二章))
カトリック文化研究所) 石井忠藤家蔵文書 ……………………………………………………………………… 秋田
藩
採集文書,盛岡市中央公民館写本 大腰五兵衛家蔵文書 …………………………………………………………………… 秋田
藩
採集文書,〔秋田県立図書館〕 岡本元朝家蔵文書 ……………………………………………………………………… 秋田
藩
採集文書,津軽歴世録 ………………………………………………………………………………………… 弘前市立図書館岩見文庫本
鶴岡
社務記録, ……………………………………………………………………………………………………………
鶴岡
叢書 て 帝王編年記
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
正中元年(一三二四)五月、翌年正月、
鶴岡
八幡宮にて、蝦夷調伏の祈禱。,… 保暦間記・諏方大明神画詞・
鶴岡
社務記録・鎌倉年代記裏書・藤島神社所蔵文書 173 ●正中二年(一三二五,… 秋田
藩
採集文書「岡本元朝家蔵文書」218 ●正平十六年(一三六一・北康安元)十一月九日、後村上天皇,… 秋田
藩
採集文書「奥村立甫家蔵文書」 325 ●天正七年(一五七九)七月、檜山勢(下国安東愛季勢。,…………
鶴岡
市田川八幡神社文書 329 ●天正十年(一五八二)六月二十九日、蠣崎季広、下国安東愛季よりの
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