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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (三 鷹献上と鷹保護)

三 鷹献上と鷹保護 戦国期以来、鷹献上は、各戦国大名間のみならず各大名が中央の政権とコンタクトをとるための,鷹好きは有名であった。,形での鷹にかかわる儀礼の確立に伴って、大名領主による鷹の需要は飛躍的に増した。  ,また放鷹(ほうよう)は、鷹献上とともに武家社会における伝統的な慣習であったが、幕藩体制成立期における放鷹制度,朝鮮鷹の輸入を除けば、国内ではこれらの地域が鷹の最大の供給元であった。 / 三 鷹献上と鷹保護
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

津軽氏の鷹保護 鷹巣の保護については、豊臣政権は既に天正十四(一五八六)・十五年に、いわゆる九州平定,秀吉は、当時九州地方において名鷹の誉れの高かった日向鷹の鷹巣独占を企図し、日向一国の鷹の独占とその献上,鷹巣の統一政権による独占の過程でもあった(芥川龍男「戦国武将と鷹」『日本中世の政治と文化』一九八〇年 ,そもそも豊臣政権は御鷹と私鷹を区別しており、御鷹は秀吉の鷹であって私鷹は各大名領主が使用するものであった,天正十九年に鷹献上を命じた、秀吉朱印状(資料近世1No.四一)にみえる、御鷹=太閤鷹として位置づけられたからであった / 津軽氏の鷹保護
通史編4(近・現代1) (鷹揚園の命名)

鷹揚園の命名 明治四十一年九月、皇太子嘉仁親王殿下(後の大正天皇)が東北地方を行啓、二十三日弘前に御到着,十一月六日、公園に対して殿下から「鷹揚園(ようようえん)」と命名のお沙汰があり、これ以後、弘前公園という,これを記念すべく、翌四十二年、本丸に「鷹揚園記碑」が建立された。 / 鷹揚園の命名
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

御鷹儀、津軽右京亮被仰付差上候条、泊々宿並鷹之餌入念自其所々可申付候也、   十月晦日  (朱印),このように鷹献上が津軽から上方へ恒常的に行われることになり、沿道の各宿泊地並びに道路は鷹献上街道として,本州北端の津軽からの鷹献上に次いで、文禄期に入って松前から京都に至る鷹献上の下命がなされたことにより、,統一政権による鷹献上システムがここに完成した。,図7.鷹献上の道筋 / 鷹献上システムの成立
通史編2(近世1) (鷹献上による豊臣政権との折衝)

鷹献上による豊臣政権との折衝 ここでは、統一政権と津軽氏との間で交わされた鷹関係文書を紹介しながら、,同氏の鷹献上の実態と、豊臣政権から下命された鷹保護の状況について記述することにする。,内容は、秀吉が為信の黄鷹(きだか)と蒼鷹(そうだか)献上に対して謝辞を述べたものである。,なお文中にみえる「黄鷹」とは、若い鷹、一歳の鷹をいい、若い鷹は胸の毛が黄色であることから、このように称,蒼鷹は、オオタカの三歳のものを指す(同前)。参考のため蒼鷹の絵を掲げた(図4)。 / 鷹献上による豊臣政権との折衝
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

)の売買を禁止し、鷹の保護を命じた(資料近世1No.四二)。,鷹の保護が命じられたのは、単に津軽地域が松前と並んで鷹の産地であったからというのではなく、「御鷹」、すなわち,、太閤鷹であったからであり、この地方の蔵入地が鷹の産地を含んでいるのもそのためのものであった。,秀吉は、放鷹(ほうよう)(鷹狩りのこと)にその政権に具備された武力示威装置としての機能を期待し、そのためには,、政権のシンボルである鷹が恒常的に供給されることが必要とされたのであった。
通史編2(近世1) (湊合戦と惣無事令違反)

一方、為信は、天正十七年十二月二十四日付で、黄鷹(きだか)・蒼鷹(そうだか)を秀吉に献上したことに対する,為信は、惣無事令違反による処罰を回避するために、鷹の献上を行ったのである。,鷹の献上は、統一政権に対しての大名が負担すべき役として認められるものであり、とくに、秀吉の場合は、諸大名,をその権力体系の中に組み込むことを意図して、鷹の献上を自らが求めたという(長谷川成一「鷹・鷹献上と奥羽大名小論
資料編1(古代・中世編) ([十世紀])

●天暦二年(九四八)七月三日、藤原忠平、朱雀上皇に出羽産の鷹を献上。,●天徳五年(九六一)正月十七日、陸奥所進鷹犬御覧。,●天元元年(九七八)四月二十五日、円融天皇、出羽国献上の鷹・犬を見る。
通史編4(近・現代1) (私設青年団の結成)

大正元年(一九一二)十月、下町の鷹城青年会と下土手町の向上青年会は、元長町の養生幼稚園を会場に連合の演説会,鷹城青年会は五十石町や鷹匠町など中級以下の士族が多く、士族意識は依然として強く、排他的な孤立が根強かった
通史編5(近・現代2) (家政女学校の創設)

15年以降)  終戦後の新学制が発足するとともに、家政女学校は設備内容を充実させ、二十三年には鷹ヶ,鷹ヶ岡女子高は中学校を併設したり、洋裁専門の鷹ヶ岡服装学院を付設したりした。  ,昭和三十一年三月二十日、鷹ヶ岡女子高等学校は、最後の卒業式の後、引き続き閉校式を挙行し、女子中等教育機関
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

なお、「高岡」の地名由来は「鷹が営巣(えいそう)する岡」にあるらしく、慶長十五年八月幕府の鷹匠三橋但馬,(たかしょうみつはしたじま)が例年「鷹ヶ岡」で鷹を捕らえていたが、この年は築城でそれができず、小栗山(,こぐりやま)(現弘前市小栗山)の松山で鷹を捕ったとある(同前No.二八七)。  ,城外に目を転じると、城の西側を流れる岩木川の西側に五三軒の侍屋敷と家数三四軒からなる鷹匠町があり、東側,の一部、塩分町の南側)、鷹匠(たかじょう)町等である。  
通史編5(近・現代2) (景気回復後の弘前市の商業)

(卸売の60%),浪岡,黒石,板柳,柏木 60% B 岩木村,駒越,新市域 80% C 能代,大館,鷹巣,黒石,大鰐,浪岡,七和,鶴田,金木,車力,深浦,鰺ヶ沢,五所川原 40% 繊維製品 A 秋田県北郡,鷹巣,大浦,相馬,目屋   C 秋田,大館,大岩   D 黒石,板柳,目屋,市周辺   海産物 A 大館,鷹巣,沢,五所川原,大鰐,黒石,相馬,船内,五能線沿線   C 西,南,北の各郡,鰺ヶ沢,五所川原,陣場,鷹巣
通史編3(近世2) (農民意識の変化)

事件の処理のため二月十七日に弘前から鷹匠六人が役人として来ていたが、彼らが指示することには庄屋弥三郎に,そこでこの態度に激怒した鷹匠のひとりがやにわに抜刀し、弥三郎の背中や胸を二・三度強打した。,どうにか事はそのくらいで済み、鷹匠たちも帰っていったが、反抗した弥三郎らに有利な裁きが出るわけがなかった,それで他出差留などの処分になったのであるが、弥三郎の態度には、たとえ相手が鷹匠という低い身分の者であっても
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

政綿、馬・鷹の献上を要請する。,所望と鷹師下向を伝える。,●天正七年(一五七九)七月、奥羽の諸大名、織田信長に鷹・駿馬を進上。,●天正十八年(一五九〇)正月二十八日、織田信雄、大浦為信の鷹献上を賞し、あわせて、派遣する鷹取りの世話,●天正十八年(一五九〇)四月十一日、豊臣秀次、大浦為信の鷹献上を賞する。
資料編1(考古編) (2.青森県の旧石器時代(図1))

上北郡横浜町吹越 細石刃ほか 5 〃 目ノ越 上北郡野辺地町目ノ越 石刃 6 〃 戸鎖 上北郡六ヶ所村鷹架字後川目,尖頭器 7 〃 発茶沢(1) 上北郡六ヶ所村鷹架字発茶沢 サイドスクレパー・剥片 8 〃 幸畑(7),上北郡六ヶ所村鷹架字道ノ下 スクレパー(掻器)削器・尖頭器ほか 9 〃 明神前 上北郡下田町阿光坊明神前
通史編3(近世2) (西光寺)

慶長十四年(一六〇九)、為信が鷹狩りの途中、浪岡にあった草庵で休息し、貧寺を哀れんで厨子入りの三尊仏と
通史編3(近世2) (慈雲院)

慈雲院 慈雲院(じうんいん)は、浅瀬石村(現黒石市)に長勝寺一二世蛇鷹を開山に創建された。
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

(うち空き屋九軒)、西外の郭には三六軒(うち空き屋敷七軒)が置かれ、藩の施設である御蔵(二の丸)や御鷹部屋,また三の丸と四の郭にあった御鷹部屋、四の郭にあった星場は、それぞれ家中の屋敷地に変わった。,御鷹部屋が四の郭の西隅に新たに設けられたことで施設の一本化が図られ、その余剰地が家中屋敷地となったのであろう,ひんきゃく)用の施設もあるものの、ほとんどが家中屋敷で占められ、四の郭には五一区画の屋敷割があり、うち御鷹部屋,御屋敷・土蔵・宝蔵など、三の郭には御館・評定所・山方払方・籾蔵・板蔵・紙蔵・与力番所、四の郭には作事方・鷹部屋
通史編5(近・現代2) (子ども会の動向)

これは二十一年から二十二年にかけて結成されたもので、茂森町の「鳳鷹会」(代表蝦名良逸)、南横町の「南友会,「鳳鷹会」は長年戦争で中止となっていた林間学校を長勝寺で開催、期間中約一〇〇〇人の児童・生徒が参加、これにより,ほかの子ども会においても、夏季林間学校の開設や紙芝居大会など「鳳鷹会」子ども会と同じような活動が行われた
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●天正十九年(一五九一)十二月十日、豊臣秀吉、津軽為信へ朱印状を下し、津軽領内の巣鷹商売禁止と鷹の保護,これより先、秀吉、全国に鷹場所を設置し、十月、大鷹狩を行う。,●慶長十五年(一六一〇)八月、この月、幕府鷹匠三橋信重、高岡へ鷹捕獲に来る。,●元和六年(一六二〇)十一月八日、幕府鷹匠伊藤景俊、津軽より鷹六箱を同行して、秋田領虻川に至る。,●寛永四年(一六二七)十月九日、幕府鷹匠伊藤景俊、津軽より鷹六箱同行し、秋田久保田に至る。
通史編5(近・現代2) (荻原井泉水来弘す)

以後、弘前は井泉水派の拠点として、その流れは「群青」、「群鳥」、そして戦後の「鷹」へと続いていく。
通史編3(近世2) (紙漉八右衛門)

八右衛門は近所に住む御鷹師などとともに、藩の御用を勤める紙漉であった。
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

させるとともに、太閤蔵入地からの収益を利用して朝鮮出兵の軍船や伏見城普請用の材木の伐採と廻漕、また太閤鷹や,なお、文禄四年九月十六日付の秀吉朱印状によれば、このころ秀吉は全国的に「御鷹場」を設置している。,では秋田実季・南部信直・小野寺義道に発給されているが、この時期までにすでに津軽氏や松前氏の領内にも御鷹場,また、これは大名側からみれば、「御鷹場」を管理し、太閤鷹を政権へ献上し続ければ、その政権の庇護のもと領国支配,奥羽の大名は、太閤蔵入地だけでなく「御鷹場」の設定により、さらに領国支配の安定を図ることが可能になったのである
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

天正十九年(一五九一)十月晦日付けと思われる、豊臣秀吉が為信に鷹献上を命じ、沿道へ献上道中支障なきように,命じた朱印状(資料近世1No.四一)には、鷹献上経路の書き出しが秋田分領として「八森~の志(し)ろ(現秋田県八森町,~同能代市)」となっており、津軽領内では大間越から八森へ抜ける西浜街道が鷹献上経路となっていた(同前)
資料編1(古代・中世編) (協力者及び協力機関一覧(敬称略))

音喜多勝(青森県八戸市) 北畠顕文(青森県板柳町) 小井田幸哉(青森県八戸市) 清水修智(秋田県鷹巣町,) 清水清一郎(秋田県鷹巣町) 戸沢武(青森県弘前市) 長岐喜代次(秋田県秋田市) 南部光徹(
通史編5(近・現代2) (後藤健次の手紙)

後藤健次の手紙 後藤健次(ごとうけんじ)は、明治三十五年(一九〇二)、弘前市鷹匠町に生まれた。
通史編2(近世1) (領内アイヌ支配の変化)

その原因は、藩とアイヌの間に海産物や熊皮、貝の玉、オットセイ、鷹などの献上と、それに対する米・銭の下賜,  2枚 (前格之通) 真珠   1      9月20日 今別松ヶ崎 左平次 黄鷹   ,元禄5年)10月8日 松ヶ崎狄 左平次 鷂    1      10月28日 今別狄 鷹,1 こふのり 1 わかめ      9月24日 今別  かのたいぬ 黄鷹   
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

同校では生徒を鷹匠町の博習小学に依託入学させ、校舎再建の準備に取りかかっていたところ、住民の中から、この,田茂木町、禰宜町、若党町、小人町、春日町、馬喰町、○亀甲町 亀甲 中初 盈進 中初 下町学区 一 鷹匠町
資料編1(考古編) ((1)石棺墓)

0.50 〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)土器期 人骨・歯等出土 1985年 (昭和60) 花巻 黒石市 花巻鷹待場,1.32 〔中期〕大曲1式土器期 人骨・副葬品なし 1987年 (昭和62) 花巻 黒石市 花巻鷹待場
通史編1(古代・中世) (調査された館)

)・福村城(写真179)・小友館・荼毘(だび)館・独狐(とっこ)館・境関館・堀越城・出間(でま)館・鷹ヶ
通史編4(近・現代1) (学区の改変)

白銀小学学区は、鷹匠町、江戸町(現中新町地区)、西大工町、駒越町、馬屋町、茂森町、片堀町(旧古堀町)、
通史編4(近・現代1) (掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧)

口絵6 樺山資紀文書46「本多庸一答申書」国立国会図書館蔵 口絵12 『鷹ケ丘城』(大正4年)弘前市立図書館蔵,『ふるさとのあゆみ』弘前Ⅲ 津軽書房 1982年 口絵25 「津軽名勝と産業」弘前市蔵 口絵26 『鷹ケ,88 『津軽之山水』弘前市立図書館蔵 写真91 『改元記念東奥人名録』弘前市立図書館蔵 写真92 『鷹ケ,弘前市立図書館蔵 写真93 「津軽名勝と産業」弘前市蔵 写真94 『弘前商工人名録』弘前市立図書館蔵 写真99 『鷹ケ
通史編1(自然・原始) (平安時代の降下火山灰)

の噴火に引き続き、毛馬内(けまない)浮石流凝灰岩が十和田カルデラの南~南西方へ流下したために、秋田県鷹巣町立鷹巣中学校
通史編1(古代・中世) (乱の勃発)

また同じ『藤原保則伝』によれば、中央の権門子弟らも、東北の善馬・良鷹を求めて相当悪どいことをやっていたらしい,馬や鷹は、東北(あるいは北海道方面)の名産品として都でも需要が高く、安価に脅し取ることができれば、都でかなりの
通史編1(古代・中世) (夷語を解する小野春風)

根拠地は、「秋田城下賊地」の「上津野(かづの)(鹿角)・火内(ひない)(比内・大館)・榲淵(すぎふち)(鷹巣
通史編5(近・現代2) (明治時代の柔術)

そして、明治十六年(一八八三)九月、長坂町に「北辰堂」、十七年二月、鷹匠町に「明治館」、二十年八月、北瓦
通史編3(近世2) (寛政期の城下)

)町之事」(前掲『弘前城下史料』上)によれば、城南では在府町後通りと同新割町、城西では馬屋町・新町・鷹匠町,け入れ先になったのは、元寺町・蔵主町・在府町・相良町・馬屋町・百石町・笹森町・長坂町・森町・若党町・鷹匠町
資料編1(考古編) (2.縄文時代の住居跡)

=不整楕円)*168・上尾駮(2)遺跡(上北郡六ヶ所村尾駮=楕円)*169・表館(1)遺跡(同郡同村鷹架,吹切沢式土器期のものが下田代納屋B遺跡(下北郡東通村小田野沢)*172・新納屋(2)遺跡(上北郡六ヶ所村鷹架,ムシリⅠ式土器期のものが、前述した表館(1)遺跡と売場遺跡(八戸市河原木)*174・発茶沢遺跡(六ヶ所村鷹架,赤御堂式土器期の住居跡は、赤御堂遺跡(八戸市十日市)*176・表館(Ⅰ)遺跡(上北郡六ヶ所村鷹架)*177
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

まや)町坤の櫓の下・馬屋町橋東の方の行角・馬屋町の中町・荒町(あらまち)へ通る古川通り・荒町川端町・鷹師町,の細小路・鷹師町中ほどより江戸町への通り・袋宮寺山道・五十石町の上細小路・五十石町の北詰め行き止り・五十石町,石以上金一五両以上の藩士が居住していたのを、御目見得以上の藩士に屋敷を与えることとし、代官町・若党町・五十石町・鷹師町,鷹匠町  五〇石 ただし細小路は五〇石以下、小給御目見得以上。  
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

今 別 1 1 6 袰月浦番所 2 袰月浦鷹野崎大筒台場,小泊七ツ石崎台場 4 龍浜崎台場 1 4 三 厩 5 今 別 10 袰月鷹野崎台場,) 1 1 1(1) 龍浜崎 3(1) 2(2) 1 1 1 1 1 袰月浦鷹野崎,大筒台場は、大間越・深浦・金井ヶ沢・鰺ヶ沢・十三・小泊七ツ石崎・龍浜崎・袰月浦鷹野崎・蟹田・青森の各所
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

職人集団として鍛冶(かじ)九一・銅屋(どうや)二一・大工三九・馬屋および馬喰(ばくろう)一八・鞘師一一・鷹師二九,武士は、姓名のあるものが三七一軒、その他鷹匠・小人・小知行等が一八五軒がみえ、約五六〇軒の侍が住んでいた,時鐘堂(じしょうどう)・新寺町に遍照寺(へんしょうじ)・現山道町(やまみちちょう)の南に五智如来堂と御鷹部屋
通史編4(近・現代1) (戸長の配置)

      石川行正  若党町 小人町 春日町 馬喰町 亀甲町              生駒慶宮  鷹匠町
通史編5(近・現代2) ((五)野球)

「凱歌は挙れり、而して磁針は当に北を指し、勝星三点長く光芒(こうぼう)を引て鷹ケ岡城に落ちたり」と語るこの
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

、十二月二十六日には弘前藩から境界交渉終結慶賀の使者として寺尾権兵衛が久保田に来着し、翌日義宣に若大鷹一羽,・山帰太鷹(やまがえりおおだか)一つ、憲忠に若兄鷹(わかしょうだか)一羽が贈られた。,憲忠に若兄鷹が贈られているところをみると、最終的には家老の梅津憲忠が津軽側との交渉をうまく取りまとめたものと
通史編3(近世2) (野本道玄)

母の家に育てられ、洛北鷹峯(たかがみね)に住んで漢学や仏学に通じ、長じて赤穂浅野家に仕えていた一樹庵三世野本道玄
通史編4(近・現代1) (組合町村制)

中津軽郡第四組戸長役場   →中津軽郡弘前東長町外廿二ヶ町戸長役場  中津軽郡第五組戸長役場   →中津軽郡弘前鷹匠町外九
通史編1(自然・原始) (草創期)

の時代とされる草創期は、旧石器時代において述べたごとく、大平山元Ⅰ遺跡で発掘された無文土器→六ヶ所村鷹架発茶沢
通史編3(近世2) (塵芥捨場の設置)

南溜池東側の土居添の下、西川岸町通の外れ、御徒町の川端添、北横町の大橋脇、紺屋町の町外れの大川添、鷹匠町
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

現北津軽郡市浦村十三)・蟹田(かにた)(現東津軽郡蟹田町蟹田)・青森浦(現青森市)・七ツ石崎(現北津軽郡小泊村)・鷹野崎,〇 目 筒 沖 打 船 青 森 3 蟹 田 1 3 1 鷹野崎
通史編3(近世2) ((三)住居)

によれば、弘前城を中心として、 城西――本百石町(もとひゃっこくまち)(後に馬屋町(まやちょう))・鷹匠町
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