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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (黒石面)

黒石面 黒石面には、黒石市街地のほぼ全域および浅瀬石川南岸の高賀野(こがの)、尾上町金屋(かなや)・,黒石面は、浅瀬石川流域では黒石市石名坂付近を扇頂部とする五~五・五キロメートルの弧状の分布を示し、尾上付近,後述のボーリング資料などから、黒石市と尾上付近に分布する黒石面はおそらく連続する面であったと考えられ、,写真36 黒石大橋から牡丹平方面を望む(左側が黒石面)  図20に示したが、開析扇状地である黒石面,黒石Ⅱ面の構成層をみると、黒石市産業会館②(五五メートル)、黒石市立六郷中学校(五五メートル)、黒石市 / 黒石面
通史編2(近世1) (黒石藩の位置)

黒石藩の位置 藩として独立したとはいっても、領内の体制が転換したわけではなく、基本的には旗本時代とほぼ,同様の政治・経済の状態であった(以下、『黒石市史』通史編I 一九八七年 黒石市刊による)。,幕府も、弘前藩の黒石藩に対する軍事指揮権等の優位性、絶対性をおおむね認める立場をとった。  ,黒石藩の廻米は届出制ながらも、ほぼ完全に弘前藩の管理下にあった。,それはとりもなおさず、黒石藩の生産状況が逐一弘前藩によって掌握されていたことを示す。 / 黒石藩の位置
通史編1(自然・原始) (黒石逆断層系)

黒石逆断層系 黒石逆断層系は、村岡・長谷(一九九〇)が、津軽平野南縁部と脊梁西縁部との境界に発達する,主断層は黒石断層と三ッ目内断層である。,唐竹温泉群との掘さく深度の差を断層変位量と考えた場合は、二〇〇メートルから五〇〇メートルとなり、黒石方向 / 黒石逆断層系
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

黒石津軽家の大名昇格 文化六年(一八〇九)四月、本家が一〇万石になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇石の黒石津軽家,黒石立藩に関する、津軽寧親(やすちか)から幕府へ寄せられた上申は、次のようなものであった。,「黒石藩」の誕生である。,五月、大名として初の黒石入りをし、蝦夷館(陣屋構内)に茶屋を取り建てた。,こうして、津軽黒石藩は、廃藩に至るまで存続した。 / 黒石津軽家の大名昇格
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

信政の襲封と黒石分知 明暦元年(一六五五)十一月二十五日に津軽信義が江戸で死去した(資料近世1No.,幕府から支給されていた蔵米三〇〇俵は返上を命じられ、また津軽家からの蔵米一〇〇〇石支給も止められた(『黒石市史,その結果、まず、黒石(くろいし)領分と外浜(そとがはま)の平内(ひらない)領分が内定した。,その結果、黒石領分二〇〇〇石、平内領分一〇〇〇石が打ち出された。,図87.黒石領内図(上)と黒石領平内之図(下) / 信政の襲封と黒石分知
資料編3(近世編2) (第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)

第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立 一 寛政改革の実施  (一)改革意見書  (二)改革の諸政策, (三)藩士土着政策の実施   二 化政期藩政の動向と黒石藩  (一)廃田・新田開発の展開, (二)国産の奨励  (三)文化の高直り  (四)相馬大作事件  (五)黒石藩の成立   三 / 第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立
通史編4(近・現代1) (第五十九銀行と黒石銀行・弘前銀行の合併)

第五十九銀行と黒石銀行・弘前銀行の合併 第五十九銀行は大正八年(一九一九)七月二十五日、黒石銀行を合併,合併仮契約書 株式会社第五十九銀行(以下甲と称す)と、株式会社黒石銀行(以下乙と称す)と合併する目的,は解散始末金として合併実行の日に於て金二万円を乙の指定せる処分委員に交付するものとす 第六条 甲は黒石支店,の頭取であるとともに第五十九銀行の株主である加藤宇兵衛(黒石地方の大地主)が関わったと考えられる。,、株主としての立場から第五十九銀行の大増資計画を知り、他の黒石銀行の株主らに諮り、黒石銀行への投資を第五十九銀行 / 第五十九銀行と黒石銀行・弘前銀行の合併
資料編1(考古編) (24.黒石沢層※Ⅱ)(くろいしざわそう))

24.黒石沢層※Ⅱ)(くろいしざわそう) 斎藤(1951)の命名による。,模式地は、秋田県北秋田郡藤里村黒石沢流域及び相馬村関ヶ平南西。 / 24.黒石沢層※Ⅱ)(くろいしざわそう)
資料編1(考古編) (25.黒石扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ))

25.黒石扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ) 岩井(1980)の命名によるが、ここでは,模式地は、黒石市高館川上流域。高清水山より北西の丘陵地域に広く分布する。,また、黒石市街地におけるボーリング調査から、海水準下約390mまで厚い礫層が存在することが確認されている,備考:岩井(1980)の黒石市街地に伏在する扇状地堆積物の主要部分に相当する。 / 25.黒石扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ)
通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

副藩主 明暦二年(一六五六)、津軽弘前藩主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として発足した黒石津軽家,弘前津軽・黒石津軽両家の藩主系図をみて明らかなように、弘前津軽家から黒石津軽家へは、信政の五男が黒石四代寿世,逆のケースとしては、黒石六代寧親が本藩九代藩主となり、黒石九代順徳(ゆきのり)が改名して本藩十一代藩主順承,、また名代としての黒石藩の役割が生じてきたのである。,ここに、弘前・黒石両藩の一体化が促進されたといえよう。  
通史編2(近世1) (家臣団構成)

家臣団構成 現在、津軽黒石藩の分限帳としては、明暦二年(一六五六)、享保二年(一七一七)、寛延三年(,一七五〇)、弘化四年(一八四七)、文久元年(一八六一)などが残っている(『黒石市史』資料編Ⅱ 一九八六年, 黒石市刊)。,文化六年の黒石藩成立以前で最も整ったものといわれる寛延三年の分限帳には、八〇の役職名と家臣団一六九人の,弘化四年の分限帳は、黒石藩時代のものとしては最も古いものである。
通史編1(自然・原始) (平賀面)

平賀面 六羽川の東側にあっては、引座川流域の扇状地性の低湿地を除いて黒石面の周辺に分布し、尾上町八幡崎,平賀面は、おそらく黒石面が浸食された平川流域を、扇状地性の堆積物と火砕流堆積物で新たに埋積し、また舌状,にとり残された黒石面を覆うように形成されたものと思われる。,、黒石市馬場尻(ばばしり)などが位置する。  ,に比較してやや緩やかであり、上位の黒石面からは緩やかに移行する。
通史編2(近世1) (一 明暦検地の意義)

この検地は、明暦二年の六月下旬から七月中旬にかけて、山形・黒石・平内(ひらない)の順で実施されたという,現在伝えられている検地帳は二〇冊であるが、山形(現黒石市)・黒石・平内には三〇ヵ村以上あるので、すべての,村の分がそろっているわけではない(七尾美彦「黒石藩明暦二年の検地帳をめぐって」『弘前大学国史研究』五六,に幕府が四代藩主津軽信政の跡目相続を認め、その後見として叔父で旗本の西丸書院番津軽信英(のぶふさ)へ黒石
通史編5(近・現代2) (景気回復後の弘前市の商業)

月現在 種別 事例 商品仕向地 卸売割合 茶 A 主として弘前市周辺農村 20% B 鰺ヶ沢,碇ヶ関,黒石,車力,深浦,鰺ヶ沢,五所川原 40% 繊維製品 A 秋田県北郡,鷹巣,尾上,碇ヶ関   B 市周辺,黒石,,浪岡,青森,鰺ヶ沢,五所川原,木造,板柳,大浦,相馬,目屋   C 秋田,大館,大岩   D 黒石,,板柳,目屋,市周辺   海産物 A 大館,鷹巣,黒石,浪岡,板柳,五所川原,金木,鰺ヶ沢 80%-90,南郡,市内 70% 食料品 A 船沢,相馬,目屋,大鰐,水木,吉田   B 鰺ヶ沢,五所川原,大鰐,黒石
通史編5(近・現代2) (争議の発端と経過)

昭和五年(一九三〇)一月二十七日、黒石町に弘電値下げ同盟が創立された。,労農党支部と黒石商工会連合の組織で、役員は次のとおりだった。  ,会長佐藤清吉(酒造業・商工会長)、副会長高樋竹次郎(土木建設業・津軽実業新報社長)、長谷川忠蔵(黒石消費組合長,同年四月十五日弘前部会と黒石期成同盟との提携が成り、弘前部会に藤崎、百田その他の支部を含み、黒石同盟には
資料編1(考古編) (15.沖浦デイサイトⅧ)(おきうらでいさいと))

模式地は、黒石市二庄内川沿い。黒石市東部の二ツ森、田代山、雷山、毛無山の山体を構成し分布する。
資料編1(考古編) (7.井戸沢礫層Ⅵ)(いどざわれきそう))

模式地は、黒石市東部の井戸沢付近。黒石市南中野及び琵琶ノ平付近に分布する。
資料編1(考古編) (21.貝吹山デイサイトⅧ)(かいふきやまでいさいと))

模式地は、黒石市梨木沢から貝吹山。,黒石市落合から虹ノ湖にかけての浅瀬石川西岸及び中野川北岸に分布する。斑晶が少なくガラス質である。
資料編1(考古編) (29.下山形礫層Ⅵ)(しもやまがたれきそう))

模式地は、黒石市下山形付近の浅瀬石川北岸の中位段丘崖。,さらに下流では再び火山砂礫となり、黒石市街地付近から西方まで同様な層相を示す。
通史編3(近世2) (浄土真宗)

新発意(しんぼち)勇進が、安政四年(一八五七)に埋葬した死者を堀り出したことから、脱衣のうえ、青森・黒石,そこで、本藩の町奉行から津軽黒石藩に対して、本藩と支藩との藩主処罰権は異なるものの、本末関係において感随寺
資料編1(考古編) (5.浅瀬石川玄武岩Ⅷ)(あせいしがわげんぶがん))

模式地は、黒石市板留(いたどめ)南方の浅瀬石川沿い。,黒石市南中野から一ノ渡までの浅瀬石川西岸に分布する。岩相は、緑色変質し暗緑色を呈する玄武岩から成る。
通史編1(自然・原始) (三 津軽平野南部の地形発達)

高位の黒石面や松原面ほど開析度が大きく急勾配で下流側へ大きく張り出している。,平野南部の、特に平賀-黒石間には中位段丘がほとんど分布せず、浪岡町で局部的に確認できる程度である。,これは、丘陵の縁辺部をほぼ南北に延びる黒石逆断層によって平野側が沈下したためと考えられ、おそらく平野下,すでに、浅瀬石川や平川流域では黒石面と平賀面、大和沢川流域では松原面と城東面が山地から供給された膨大な,このために、黒石Ⅱ面および松原面の前縁にほぼ連続する形で平賀面、城東面および高杉面が形成された。
通史編5(近・現代2) (農民運動の変質)

表15 昭和三年から八年までの弘前署黒石署管内小作争議件数   昭和三年 昭和四年 昭和五年   件数,反別 件数 反別 件数 反別 弘前 一 一町五反歩 二 一三町八反七畝 〇 〇 黒石 三 八反七畝,件数 反別 件数 反別 件数 反別 弘前 五 一三町一反二畝 七 三町九反五畝 一六 一一町二反三畝 黒石
通史編1(自然・原始) (平野南縁の地形区分)

図20 津軽平野南縁における水系と等高線図  黒石市は浅瀬石川北岸に発達する開析された扇状地(9,次に、平野南縁の等高線の配置をみると、黒石市街地は浅瀬石川の河床から一〇~一五メートルの急崖で臨む台地上,一方、黒石市より下流側の常盤村付近では等高線の間隔が粗く緩傾斜面であって、扇状地性の低地あるいは氾濫原,また、図26には平野南縁の平賀町~尾上町~黒石市の南北方向の地質断面を示した。,この地域の地形区分を上位から花巻面、黒石面、平賀面、常盤面、そして田舎館面の五面に区分し、各面の地形的
通史編3(近世2) (慈雲院)

五代藩主信寿は前年の九年、温湯(ぬるゆ)(現黒石市)へ湯治に出かけ、薬師堂(現薬師寺、黒石市)に参詣して,一九一五)から旧制弘前中学校校地の拡張が、慈雲院の境内全部と報恩寺の一部に及んだため、慈雲院は薬師寺(現黒石市
通史編4(近・現代1) (県内青年の政治的自覚)

大正十一年、黒石町に革新青年団が生まれた。,革命以後の時代風潮もあって、大正八、九年ごろから黒森山浄仙寺で南郡下の青年団中堅幹部の講習会が開かれ、黒石,大正十二年、黒石革新青年団は郡青年団から脱退した。
資料編1(考古編) (52.八甲田第1期火砕流堆積物Ⅷ)(はっこうだだいいっきかさいりゅうたいせきぶつ))

黒石市高館周辺及び法峠周辺に若干分布する。,黒石市高館付近での層厚は10~15m。  
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

記載されているのは、大道小道帳では西根小道とある弘前~百沢を結ぶ百沢街道、同じく東根小道とある大鰐~黒石,脇道の記載が多数あるが、浪岡~高田~荒川~浜田~青森間の大豆坂(まめさか)通り、藤崎~川辺~堂野前~黒石間,の黒石街道、百沢街道途中の宮地(みやじ)から国吉(くによし)~桜庭(さくらば)~中畑(なかはた)~田代,また黒石津軽家が成立する以前の史料であるためか、弘前から黒石に向かう場合は直通道路が記載されておらず、,羽州街道の和徳村大道から境関~日沼~田舎館~高樋(たかひ)を経由して、乳井通りを経由して黒石へ行ったものと
通史編1(自然・原始) (透水性)

地層の透水性は、弘前市街地でk=1.0×10-5cm/sec(青森県、一九九一)、田舎館村・黒石市付近,・山地に分布する地層との関連では、弘前市街地で新第三紀中新世の大和沢層・松木平層相当層に、田舎館村・黒石市付近
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

この届書では、「海岸向固之儀」について宗藩から在所黒石の家来に通達があり、それを受けて物頭一手の人数を,)、この折も、順承の指示を受けて黒石津軽家の家臣が動いている。  ,黒石藩の海防態勢をみると、黒石から二〇人ほどの藩士が平内領の田沢村(東津軽郡平内町東田沢)に派遣されるとともに,、平内領の領民一〇〇人ほどを雇って田沢村に詰めさせ、さらに黒石町在において五〇〇人ほどの人夫を確保して,、危機に備えている(『黒石市史』通史編Ⅰ)。  
通史編5(近・現代2) (失業の増加と消費組合)

  弘前消費組合 弘前市大町   古木名眞太郎   和徳消費組合 中郡和徳村百田 佐藤多三郎   黒石消費組合, 南郡黒石町   柴田久次郎   藤崎消費組合 南郡藤崎町   竹島儀助   伝馬分店   同町伝馬,南郡浪岡村   浅利 崇  これらの組合は日本無産者消費組合連盟に加盟しており、昭和七年十一月十四日、黒石消費組合
資料編1(考古編) (〈参考文献〉)

地理学評論 Vol.45,No.11 Ⅵ)小高民夫・中川久夫・野田浩司・岩井武彦・早坂祥三(1970) 黒石地域,東北大学地質学古生物学教室邦文報告,No.58 Ⅷ)村岡洋文・長谷絋和(1990) 5万分の1地質図幅「黒石地域
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

黒石津軽家とその分家は、本家である弘前津軽家に発給された領知宛行状にその領知高が明記されている。,たとえば寛文四年(一六六四)四月五日付の領知朱印状・領知目録においては、黒石津軽家の左京信敏分四〇〇〇,石、黒石津軽家の分家である一学信純(いちがくのぶずみ)家分一〇〇〇石とも本家である弘前津軽家の信政宛ての,黒石津軽家が大名となってから最初に発給された天保十年(一八三九)三月五日付の領知判物・領知目録の場合、,、その差額分を伊達郡内に与えられたことから異同が生じたものである(『黒石市史』通史編I 一九八七年 黒石市刊
通史編2(近世1) (厄介視される預手形)

預手形は支藩の津軽黒石藩でも通用させた。,しかし、通用しがたいのは本藩と同じで、黒石領に魚類が多く入り込むのに業をにやした藩庁は、預手形を使用しない,り引きがその原因として、手形を通用させない限りは、米穀はもちろん何の品でも弘前領からは販売しないし、黒石領,からは買わないと黒石役人に通告した(「国日記」天保九年一月二十八日条)。  
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

なお、海防報告書のなかに並記されている津軽黒石藩の海防体制についてもここで簡単に触れておきたい。,』通史編I 一九八七年 黒石市刊)。,、津軽黒石藩自体もその動きに追随する形で自己の役割を担っていたことがわかる。,表53 黒石藩平内領海防人数とその配置(天保14年3月調べ) 代官 目付役 諸士 浦役人 小頭 小役人,表54 津軽黒石藩平内領海防武器数(天保14年3月調べ) 弓(張) 長柄(筋) 鉄炮(挺) 土屋村浦番所
通史編5(近・現代2) ((二)明治言論界の巨星・陸 羯南)

明治三十七年(一九〇四)に、函館へ向かう島崎藤村を秋田雨雀(明治一六-昭和三七 一八八三-一九六二 黒石市,)と鳴海要吉(明治一六-昭和三五 一八八三-一九六〇 黒石市)が青森駅で出迎えたことは象徴的な出来事といっていい
通史編3(近世2) (町家の遺構)

石場家は、黒石の豪商高橋家(たかはしけ)住宅(現黒石市中町、重要文化財)とともに現存する町屋の遺構の双璧
通史編4(近・現代1) (青森県の社会運動の始まり)

翌二十二日は黒石町で演説会を芝居小屋で開いた。,黒石には社会主義協会の支部があり、同町の実業新聞社が応援をし、参会者百余人だった。,名前が分かっているのは、黒石社会主義協会グループに中津軽郡裾野村須藤繁文、彼は明治三十一年から高杉村前坂
通史編1(自然・原始) (津軽付近に震源のある地震(内陸地震))

○弘化四年(一八四七)…津軽地震(推定M五・九)…………弘前城下強震、猿賀、黒石で被害。,弘前から黒石を中心に青森・津軽半島にかけても被害が発生した。
資料編2(近世編1) (第一節 領内支配と支配機構の整備)

 地方知行の状況  (一)知行充行状の下付  (二)知行帳  (三)寺院への知行方  (四)黒石津軽氏知行
通史編3(近世2) (照源寺)

照源寺 照源寺(しょうげんじ)は、「長勝寺並寺院開山世代調」によれば、初め温湯(ぬるゆ)村(現黒石市
通史編5(近・現代2) (県内における組織化と弾圧)

政治研究会支部の活躍が見られたが、中央に正式の無産政党が誕生する前の大正十四年九月に、弘前の堀江彦蔵、黒石,共産党と組織関係はなかったが、共産党と同伴的関係にあった労働農民党が党員一六〇人(うち弘前支部五〇、黒石支部六
通史編1(自然・原始) (第四節 引用・参考文献)

弘前市高杉地区における温泉開発について、二-二〇頁 (4)村岡洋文・長谷紘和(一九九〇) 五万分の一地質図幅 黒石地域,) 青森県域重力図(ブーゲー異常) (15)鎌田耕太郎(一九九三) 津軽平野をつくった断層その一-黒石逆断層系
通史編1(古代・中世) (県下の諸郡)

津軽平賀郡は岩木川上流地域、津軽田舎郡は黒石市・南津軽郡尾上町・田舎館村付近、津軽山辺郡は黒石市・南津軽郡浪岡町付近
資料編1(考古編) (17.落合礫層Ⅵ)(おちあいれきそう))

模式地は、黒石市落合付近。低位段丘堆積物として、主要河川の河岸沿いに分布する。
資料編1(考古編) (23.久渡寺流紋岩部層※Ⅲ)(くどじりゅうもんがんぶそう))

備考:大沢(1962)の黒石沢層、湯口山層、栩内川層に貫入する流紋岩に相当する。
通史編3(近世2) (慈雲院)

慈雲院 慈雲院(じうんいん)は、浅瀬石村(現黒石市)に長勝寺一二世蛇鷹を開山に創建された。
通史編2(近世1) (二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう))

なお黒石市蔵の明暦二年(一六五六)の検地帳が、津軽領に残る最古のものとされている。
通史編4(近・現代1) (鉄道事業の伸展)

大正元年(一九一二)八月十五日に、奥羽本線川部駅を起点に黒石町に達する黒石線(国有鉄道)が開業し(資料近,・現代1No.六二三)、弘前市から黒石町への交通の便がよくなった。,黒石町への鉄道計画としては、明治二十九年十一月に免許状を受けた津軽鉄道があり、これは木造村から五所川原村,を経て、黒石町に達する計画であったが、資本金を工面できず、明治三十二年十月に会社は解散し、実現には至らなかった
通史編5(近・現代2) (本県初の鉄道電化)

さらに昭和二十五年七月一日には、津軽尾上と弘南黒石間の新路線五・七キロメートルの運輸営業も開始され、弘前市,と黒石市との行き来は格段に便利になった。
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