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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (黒石藩の位置)

黒石藩の位置 藩として独立したとはいっても、領内の体制が転換したわけではなく、基本的には旗本時代とほぼ,幕府も、弘前藩の黒石藩に対する軍事指揮権等の優位性、絶対性をおおむね認める立場をとった。  ,黒石藩の廻米は届出制ながらも、ほぼ完全に弘前藩の管理下にあった。,それはとりもなおさず、黒石藩の生産状況が逐一弘前藩によって掌握されていたことを示す。,弘前藩の財政再生産の一部として、黒石藩は位置づけられ、強い従属性を持っていたといえよう。 / 黒石藩の位置
資料編3(近世編2) (第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)

第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立 一 寛政改革の実施  (一)改革意見書  (二)改革の諸政策, (三)藩士土着政策の実施   二 化政期藩政の動向と黒石藩  (一)廃田・新田開発の展開, (二)国産の奨励  (三)文化の高直り  (四)相馬大作事件  (五)黒石藩の成立   三 / 第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立
通史編2(近世1) (家臣団構成)

家臣団構成 現在、津軽黒石藩の分限帳としては、明暦二年(一六五六)、享保二年(一七一七)、寛延三年(,文化六年の黒石藩成立以前で最も整ったものといわれる寛延三年の分限帳には、八〇の役職名と家臣団一六九人の,弘化四年の分限帳は、黒石藩時代のものとしては最も古いものである。,慶応四年(一八六八)の貼紙がみえるところから、この分限帳の職制は、おそらく黒石藩最後のものであろう。
通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

名代を命じられた直接的理由は、弘前藩主が病気等の理由で身動きのとれない時に依頼するのであり、黒石藩成立後,、天保四年(一八三三)十月の名代を除いて、すべて弘前藩主が江戸在府中に名代を勤めており、黒石藩主は在国,後見役から「副藩主」へという立場の変化は、津軽弘前藩と黒石藩の一体化が、図られていったということにもなろう,となったのが本藩藩主となった寧親であり、彼以後両藩の家系維持のための交流が多く行われ、また名代としての黒石藩
通史編3(近世2) (浄土真宗)

そこで、本藩の町奉行から津軽黒石藩に対して、本藩と支藩との藩主処罰権は異なるものの、本末関係において感随寺
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

「黒石藩」の誕生である。,こうして、津軽黒石藩は、廃藩に至るまで存続した。
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

なお、海防報告書のなかに並記されている津軽黒石藩の海防体制についてもここで簡単に触れておきたい。,この海防報告書の提出形態からもわかるように、津軽弘前藩では津軽黒石藩領である平内領の沿岸海防も一体のものとしてとらえ,、津軽黒石藩自体もその動きに追随する形で自己の役割を担っていたことがわかる。,表53 黒石藩平内領海防人数とその配置(天保14年3月調べ) 代官 目付役 諸士 浦役人 小頭 小役人,表54 津軽黒石藩平内領海防武器数(天保14年3月調べ) 弓(張) 長柄(筋) 鉄炮(挺) 土屋村浦番所
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

さらに津軽弘前藩では津軽黒石藩にも指示して、平内領の海岸に固め人数を出張させた(嘉永元年三月二十八日付津軽順承届書,これにつき、次のような届書が、四月十九日、当時江戸にいた津軽黒石藩主津軽承保(つぐやす)から月番老中牧野忠雅,津軽黒石藩の軍事指揮権は、幕府の旗本であったとき以来本藩である津軽弘前藩に握られていたが(第三章第二節一参照,黒石藩の海防態勢をみると、黒石から二〇人ほどの藩士が平内領の田沢村(東津軽郡平内町東田沢)に派遣されるとともに
通史編3(近世2) (一二代承昭の襲封)

具体的には承祜の弟、本次郎朝澄(ともずみ)(後、黒石藩主津軽承叙(つぐみち))を一二代に迎えようというのである,また、一〇代信順の代に姻戚関係となった田安家もこれに同調したため、藩首脳は本次郎を黒石藩主に据え、血統存続
通史編2(近世1) (一 明暦検地の意義)

現黒石市)・黒石・平内には三〇ヵ村以上あるので、すべての村の分がそろっているわけではない(七尾美彦「黒石藩明暦二年
通史編3(近世2) (神道)

このような藩の神職組織は、秋田・盛岡・松前の北奥羽諸藩および支藩津軽黒石藩にもみられない特異なものであった,西中野目村飛鳥権現宮社司長利丹波は、上京のため産子一一ヵ村に二〇両を割り当て、ほかに一〇両、合わせて三〇両を準備し、安政五年、津軽黒石藩
通史編3(近世2) (捕虜となった庶民)

やがて夜が明け、嘉七と松は黒石藩平内領の沼館(ぬまだて)村にたどりつき、自分たちは郷夫だからどうか助けてくれと
通史編2(近世1) (厄介視される預手形)

預手形は支藩の津軽黒石藩でも通用させた。
通史編3(近世2) (宮古湾海戦)

六二一人 徳山藩兵 二五五人   大野藩兵 一六六人 松前藩兵 五五二人   弘前藩兵 二八八六人 黒石藩兵
通史編4(近・現代1) (第一回通常県会)

他地域では黒石に共進社が発足、のち益友会と改めたが、大地主の加藤宇兵衛や弘前藩士族竹内清明、黒石藩士族
通史編2(近世1) (幕末期の海防体制)

津軽黒石藩においても、天保十二年(一八四一)には、藩主承保が本藩に対して、在国中、兵学稽古のため山鹿流兵学師範
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

たとえば、天保十年(一八三九)五月十六日に江戸城中で達せられた津軽黒石藩主津軽順徳(つがるゆきのり)(
通史編4(近・現代1) (家禄制度改革)

訳 旧弘前藩 14,135.00 旧館藩 2,330.00 旧八戸藩 944.00 旧黒石藩
通史編3(近世2) (一一代順承の治世)

ただ、順承は幕府老中松平信明の三男から黒石藩主になったため、津軽家の血統を引いていなかった。
資料編3(近世編2) (【解説】)

領主的対応、そしてその中での民衆の動向をあとづける意図から、「後期藩政の展開と社会状況」「藩政改革の実施と黒石藩,本格的に取り組むとともに、国産奨励策を積極的に進めていったこと、および、文化の高直りとそれにともなう津軽黒石藩,黒石藩の成立もこの流れの中でとえられる。,なお、第一節、第二節で掲げた藩財政の窮乏、民衆の一揆、寛政改革、文化の高直りと黒石藩の成立などの背景に
通史編3(近世2) (藩から県へ)

また、明治二年の凶作に苦しめられた黒石藩では、財政窮乏に耐えかねて明治四年秋に収納した年貢の半分を年内
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

津軽弘前藩主津軽承烈(つぐてる)(後の承昭(つぐあきら)、一八三四~一九一六)の名代として江戸城に登城した津軽黒石藩主津軽承叙
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

162 162 10 福山(松前)藩 531 531 11 熊本藩 118 38 156 12 黒石藩
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

時に彼は四十歳であったが、無嗣のため黒石藩主九代津軽順徳(ゆきのり)(後に順承(ゆきつぐ))が養子に迎
通史編3(近世2) (新しい指導者)

旧黒石藩は箱館のイギリス人ハウエルより借財をしたが、今年分の返済を滞らせていたことにより、訴訟にもなりかねない
通史編3(近世2) (金木屋の生活)

三日、この総人数は、津軽黒石藩家老唐牛夫妻、その他芸者も含めて約三〇人であった。
資料編3(近世編2) (新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)

近隣諸組の強訴 ………………………………………………………………………  九六  第二節 藩政改革の実施と黒石藩,藩士土着政策の実施 …………………………………………………………………  一二二   二 化政期藩政の動向と黒石藩,(四)相馬大作事件 …………………………………………………………………………  一六〇    (五)黒石藩
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

563  一 蝦夷地直轄下の警備と民衆 ……………………………………  563  二 文化の高直りと黒石藩
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