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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・鼻和郡)

津軽曽我氏の所領・鼻和郡 文和四年(一三五五)の「あへのうちめうあ(安倍氏妙阿か)譲状」(史料七一三,)によって、津軽鼻和郡「はゝきの村」(比定地不詳)を譲られた「ゆわたてとの」(史料七一七にみえる「岩楯殿,その推測によれば、曽我氏の所領がこのころ鼻和郡にもあったことになる。 / 津軽曽我氏の所領・鼻和郡
通史編1(古代・中世) (工藤氏の活躍)

その勲功の賞として貞行は、山辺郡・田舎郡・鼻和郡・外浜などに所領を得た(史料六四七・六五七・写真137,なお鼻和郡・外浜の所領は、安藤の乱に際して津軽で安藤季長を捕らえたという工藤貞祐(祐貞)からの没収地であった
通史編1(古代・中世) (県下の諸郡)

県下の地には当時の古文書類に記された地名から、津軽平賀郡・津軽田舎郡(津軽山辺(やまのべ)郡)・津軽鼻和郡,岩木川上流地域、津軽田舎郡は黒石市・南津軽郡尾上町・田舎館村付近、津軽山辺郡は黒石市・南津軽郡浪岡町付近、津軽鼻和郡,その地名は、出羽国平鹿郡との関連が推測されているが、同様に鼻和郡は、陸奥国花輪郡との関連が推測されている
通史編2(近世1) (本村と新田)

からなり、平賀郡一万九二六五石余・新田高一万五六三三石余、田舎郡一万一三七六石余・新田高一万八四〇一石余、鼻和郡一万四三五八石余,表10 初期の新田(弘前市域) 平賀郡新田村名 石   高 (石・斗・升) 鼻和郡新田村名 石   ,27.52 計 4377.11 計 2602.00 平賀郡新田高合計に占める割合 28.0% 鼻和郡新田高合計,鼻和郡の新田にも成立が中世までさかのぼる村が含まれているのだが、それを新田として扱っている理由は不明である,表11 初期の本村(弘前市域) 平賀郡本村名 石   高 (石.斗 升) 鼻和郡本村名 石   
通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

))に与えた正中二年(一三二五)九月十一日付の譲状(史料六二一)には、譲渡する諸職の内容として、津軽鼻和郡絹家島,(前)を除く津軽西浜の譲渡がみえることから、安藤氏の支配領域は津軽・南部両地方にわたり、津軽地方では鼻和郡内諸郷,具体的にそれらの地名を考えてみると、津軽鼻和郡内の「絹家島」と「片野辺郷」については現地比定が困難であるが
通史編1(古代・中世) (中世の農民)

はなわ)郡・奥法(おきのり)郡・馬(うま)郡・江流末(えるま)郡・外ヶ浜・北浜の六郡・二浜に分け、西浜は鼻和郡,小栗山 小栗山 大沢 大沢 和徳 和徳 樋口 樋の口 袋宮 樋の口 田舎郡 津合流野 津賀野 鼻和郡
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●正中二年(一三二五)九月十一日、安藤宗季、鼻和郡内諸職・蝦夷の沙汰・糠部郡内諸職を子に譲る。,●建武二年(一三三五)正月二十六日、工藤貞行に鼻和郡目谷郷・外浜野尻郷を安堵。,●建武二年(一三三五)閏十月二十九日、安藤高季に、鼻和郡・糠部郡・西浜等の所領を安堵。,●興国六年(一三四五北康永四)三月二十七日、平賀景貞に鼻和郡内摩禰牛郷を、工藤四郎五郎に同郡大浦郷内を,●文和四年(一三五五・南正平十)正月十九日、安倍妙阿、津軽鼻和郡はゝきの村の田在家を岩楯殿に譲る。
通史編1(古代・中世) (津軽(郡)中名字の世界)

おきのり)・江流末(えるま)・馬(うま)の外三郡とに分かれるとされ、現在の弘前市域の地名は、平賀郡と鼻和郡
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

同年、種里城の光信には大浦城を築城させ鼻和郡の本拠地とさせた。
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

大浦城と大浦城下町 大浦為信が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡大浦を中心とした地域であり,「大浦城」は文亀二年(一五〇二)三戸南部氏安信(やすのぶ)が、種里城の光信に大浦城を築かせ、鼻和郡の本拠地
通史編2(近世1) (本村と新田)

ちなみに「津軽知行高之帳」では、深浦村は鼻和郡に高三九一・九八石の村としてある。  ,「津軽知行高之帳」では、松神村も大間越村も鼻和郡の新田として村名がみえ、高はそれぞれ三・一六石と一〇・
通史編1(古代・中世) (安藤氏の没落)

その後、康季の子義季は享徳二年(一四五三)に津軽鼻和郡大浦郷根倉(ねくら)館に立て籠ったが、南部氏に攻
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

中世の当地域は、津軽鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから「西根」とも称された。
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

の「関家文書」などに見えるもので、十五世紀半ばの文明年中(一四六九~八七)、南部氏の家人十二将が津軽鼻和郡
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

津軽家の譜代家臣の出身地は、岩木川西岸、そして岩木山と岩木川とに囲まれた地域、すなわち鼻和郡の南側に色濃
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

浪岡御所北畠(なみおかごしょきたばたけ)氏が作成したといわれる「津軽郡中名字(つがるぐんちゅうなあざ)」に「鼻和郡三千八百町
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城の構造 大浦城を含む中世の当地城は鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

の「関家文書」などに見えるもので、一五世紀中葉の文明年中(一四六九~八七)、南部氏の家人十二将が津軽鼻和郡
資料編1(古代・中世編) ([十三世紀])

●文永五年(一二六八)十月十九日、大江光清、鼻和郡大浦郷の内を譲る。 ●このころ、蝦夷の反乱。
通史編1(古代・中世) (曽我貞光の奮戦)

るものが出て、安藤四郎なるものが、安藤氏の所領内の尻八楯(すでに述べたようにこれは「尻引」の誤写で、鼻和郡尻引付近
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

一四四五)、下国安藤康季が夷島より津軽に入って引根城に拠り、また享徳二年(一四五三)には、康季の子義季が「鼻和郡大浦郷
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

細かく地名を検討すれば、奥法・平賀・田舎各郡と、鼻和郡のうち岩木山の東南麓の地名は詳しく記されている。,写真187 津軽六郡絵図(第一号)  この史料には、天文年間の津軽地方の支配状況について、鼻和郡三八
通史編1(古代・中世) (渡嶋の所在)

というのは、中世になっても、津軽三郡ないし津軽四郡と称されて「津軽」の名を冠せられた地域は、津軽鼻和郡
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●永享四年(一四三二)六月二十七日、前伊勢守親経・源家行、津軽田舎郡平内郷内・鼻和郡目谷内の地を天台寺,●享徳二年(一四五三)、下国安藤義季、南部勢に攻められ、津軽鼻和郡大浦郷にて自殺。
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

石川城跡が築かれた場所は奥大道の街道沿いであり、なおかつ鼻和郡の中心部に入る入口に築かれているということに
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

新郡の名前を見てみると、たとえば津軽平鹿郡は出羽国平鹿郡と、津軽鼻和郡は鹿角の花輪と、久慈郡は常陸国久慈郡
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

、其後、秋田久保田表江右浄願寺引移建立仕、兄弟共同所ニ罷有候處、享禄元子年、御召ニ寄、誓圓儀、御当国鼻和郡大浦御城辺一丁田村江住居
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

…………………………… 斎藤文書 157 ●文永五年(一二六八)十月十九日、大江光清、鼻和郡大浦郷の内,………………………… 結城家文書 194 ●建武二年(一三三五)正月二十六日、工藤貞行に鼻和郡目谷郷・,………………………… 南部家文書 199 ●建武二年(一三三五)閏十月二十九日、安藤高季に、鼻和郡・糠部郡,…………………………… 鬼柳文書 215 ●文和四年(一三五五・南正平十)正月十九日、安倍妙阿、津軽鼻和郡,………… 前代歴譜・新撰陸奥国誌 285 ●天文二年(一五三三)、この年、京都本国寺僧日尋、鼻和郡賀田村
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天文二年(一五三三)、この年、京都本国寺僧日尋、鼻和郡賀田村(現岩木町賀田)に法華宗寺院法立寺を開山
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