天慶二年(九三九)十二月、将門は上野(かみつけ)国府を占拠して「新皇(しんのう)」に即位した際に弟将平(まさひら)の諌言(かんげん)に対し、以下のように反論したと『将門記』は伝える。
今は戦って勝利を得たものを主君と仰ぐ時代である。国内にその例がないとしても、外国にはその例がある。去る延長年中に大赦契王(たいしゃけいおう)が渤海を滅ぼして東丹(とうたん)国を建てている。どうして実力によって皇位を攻め取らないということがあろうか。
文中の「大赦契王」は、「大契赧(きったん)王」の誤記で、契赧とは契丹(きったん)のこと。延長四年(九二六)正月に、遼(りょう)の耶律阿保機(やりつあぼき)が渤海を滅ぼしたことを例に引いて自己を正当化しているのである。
もちろんこのやりとり自体は『将門記』作者によるフィクションであるかもしれないが、東丹建国の事実は、延長七年(九二九)に東丹国使が日本に伝えているので、それが時の中央貴族に与えた衝撃は大きかったに違いない。
そしてその記憶が、将門の乱と重ねあわされて、『将門記』に右のように描かれているのである。当時の中央政府のなかにも、東アジアの動乱が日本国内に波及するという認識、内政と外圧が連関するという認識をしっかりともった人物がいたことは確かである。