膠着した戦線を打開すべく頼義がとった策は、火攻めであった(史料四五四)。幸運にも強風が吹き、火はあっというまに柵内を覆った。熱さに堪(たま)りかねて飛び出してきた安倍軍は、ことごとく官軍に討ち取られたという。
やがて経清が生け捕りにされた。頼義は経清に対してこういって責めたという。
おまえの先祖は代々我が家の家僕である。近年、朝廷の威光を軽んじ、旧主をないがしろにした態度は、人の道に背くことはなはだしく、道理にも背いている。今日は以前したように白符は用いないのか、どうだ。
しかし経清は黙って答えない。頼義は深くこれを憎んで、苦痛を与えるためわざと切れ味の悪い鈍刀でその首を斬らせたという。
一方、貞任は官軍の鉾(ほこ)に刺されると、大楯に乗せられて将軍の前に担ぎ込まれた。身長は一・八メートル、腰回りは二・二メートル、容貌は人並み外れて猛々しく立派で、よく肥えて色白であったという。
頼義はやはり貞任に対しても罪状を問責した。貞任は何かいおうとしたが、そのまま首を斬られて絶命した。貞任の子の一三歳の千代童子(ちよどうじ)は、容貌美麗であったので頼義は助けようとしたが、武則が後顧の憂いを説いたので、やはり斬首とした。
やがて宗任・家任らが投降してきて、ここに前九年合戦はついに終わった。宗任らは伊予(いよ)国へ流罪。都に運ばれた貞任・経清・重任の首は、大勢の見物人が押し寄せるなか、獄門にかけられた。
また経清の妻(頼時の娘)は、七歳の子を連れて清原武則の長男武貞の妾とされた。この七歳の子こそ、のちの藤原清衡(きよひら)である。