秀衡と義経の死

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その秀衡のもとに、後白河法皇の策略などによって兄頼朝に追われる身となった義経が、山伏姿で再び下ってきたのは、文治三年(一一八七)二月のことであった。貢馬・貢金のサボタージュに加えて義経まで受け入れるとなれば、ますます頼朝との関係が悪化することは自明である。秀衡が義経を迎え入れた理由は史料的にはどこにも明記されていないが、おそらくこのころ、頼朝との全面的な対決を覚悟していたと見るべきであろう。
 義経の平泉入部がいつ頼朝に知られるところとなったのかについては明らかではないが、この年九月には、頼朝の要請によって、義経を差し出すようにとの院宣が秀衡に対して発せられた。秀衡は遠回しにそれを拒否し、さらに部内では合戦の準備すら整えられているとの噂もあった。
 そうした緊張が続くなかでの翌十月、秀衡は臨終を迎える。その際秀衡は、異母兄弟である国衡・泰衡と義経との三人を枕元に呼び寄せ、家督を泰衡(やすひら)に譲ること、国衡には自分の正妻(泰衡の母)を娶(めと)らせること、義経を主君として国衡・泰衡兄弟が一致して仕えるよう起請文を書くこと、先手を打って鎌倉を攻めるべきことなどを遺言したという(『吾妻鏡』『玉葉』)。
 『愚管抄』は国衡を「父太郎」、泰衡を「母太郎」と呼んでいるが、その母太郎泰衡が後継者となったということは、家の母が、家督継承に大きな発言力を持っていたことを意味する。後述するが、東北地方では、女系の系図が残されるなど、女系が大きな意味を持つ存在であった。
 しかし泰衡には、父秀衡ほどの才覚も器量もなかったといわれる。頼朝は本格的な出兵準備を進めて奥州に圧力をかけ、一方では後白河法皇を通じて、数度にわたって義経を召し出すようにとの院庁下文が発せられると、泰衡はついに父の遺言に背くことを決意した。義経を討つことによってしか平泉の独立を保持する道はないと考えたのである。
 文治五年(一一八九)閏四月三十日、泰衡は自ら数百騎をしたがえて、義経の居所である衣川館(ころもがわのたち)を急襲した。ここに義経は、持仏堂にて妻と四歳の娘を殺したのち自害したという(写真92・93)。平泉には義経びいきのものも多く、泰衡の弟泉三郎忠衡もそれが理由で義経の死の二ヶ月後の六月、殺害された。平泉政権安定のための義経の殺害は、逆に平泉内部の亀裂を深めるという側面をもっていた。

写真92 『扶桑見聞誌記』義経らの死亡


写真93 源義経

 たしかに院から討伐命令の出ている義経の殺害によって、頼朝には平泉征伐のための大義名分がなくなった。泰衡は本気でこれによって事態が打開されると読んでいたであろうし、事実、後白河法皇は、頼朝に対して奥州征伐の猶予を明言している。頼朝の再三再四にわたる奥州討伐勅許の請願に対し、後白河法皇はついに許可を下さなかったのである。もちろん後白河としては、頼朝を牽制するために平泉を温存させたいということも念頭にあった。