曽我惟重とその妻

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仁治二年(一二四一)に曽我氏が知行する岩楯村内の「亡夫墓堂(燈油)仏聖田」のことを申請した人物に「岩楯尼」なる女性がいる(史料五六九〈写真118〉・五七〇)。時期的にみると、この「亡夫」の妻である「岩楯尼」は、廣忠か惟重の夫人ということになるが、当時惟重が存命だったことは、翌仁治三年の「北条泰時袖判盛阿奉書」(史料五七一)の充所が「曽我五郎二郎殿」(惟重)であることから確実で、岩楯尼は、惟重の父広忠の夫人とみるべきであろう。

写真118 北条泰時書下状

 また嘉禎三年の「北条泰時袖判下文」(史料五六一)で「夫沙弥西心」の嘉禎二年の譲状に任せて一期分として岩楯村地頭代職を安堵された「伊豆田所女房」なる女性がいるが、西心(写真119)は惟重の法名であるから、伊豆田所女房はその夫人である。このことは弘安七年(一二八四)の「平祐行請文案」(岩手大学新渡戸文書)に、伊豆国安富郷国吉名内田所免田が曽我泰光(曽我系図で惟重の孫)の祖母の遺領とみえることからも、伊豆田所女房が泰光祖母であってすなわち惟重の妻(したがって西心=惟重)であることが確認できる。

写真119 西心碑
(大鰐町)