曽我光頼とその家族

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泰光と慈照との間の子と目されるのが、太郎光頼(みつより)である(史料五九五~五九九)。「さへもん(左衛門)太郎」とも号した(斎藤文書・正和二年〈一三一三〉、曽我系図)。
 「曽我泰光譲状」によれば、泰光には他に「いや(弥ヵ)二郎」「三郎光俊」、養子として「二郎八郎」(史料五九八)らの子がいたことが確認できる。光頼に渡った所領は、のちに「沙弥光称」よりその子に譲られているので(史料六一四・六二三ほか)、曽我系図にあるように光称は光頼の法名であろう。
 その太郎光頼の妻と考えられるのが「ありわう御せん」(史料六〇〇・六〇一)である。この女性が「太ろうこせん」(史料六〇七)と呼ばれていること、その母、尼「たうしゃう」が光頼の子息を孫と呼んでいること(斎藤文書・正和二年〈一三一三〉)から確認できる。「たうしゃう」は片穂中務丞惟秀(かたほなかつかさのじょうこれひで)の後家(史料六〇〇ほか)である。
 光頼と「ありわう」御前との間の子が、「いぬ太らう(郎)」(斎藤文書、遠野南部家文書・正和二年)で、「よいちすけみつ」(史料六一一)・「余一資光」(史料六三二)である。当初、この資光「一子」だけであったようである(斎藤文書、遠野南部家文書・正和二年)。