仁治三年(一二四二)の執権代替り(北条泰時から経時へ)に際しては、十月に惟重がこの地を安堵されている(史料五七一)。岩楯のところで見たように、すでに延応元年(一二三九)には岩楯村の知行権は、惟重妻ないし光弘の手に入っていたわけであるが、このように平賀郷についてはまだ惟重が知行していた。しかしこれに先立つ四月には、同郷内の新屋淵村・長峯村の地頭代職については譲状によって光弘にそれを譲っており、同じく十月に安堵されている(史料五七三)。したがって、あるいは光弘の実際の知行開始はもっと早かった可能性もある。
その後、平賀郷全体について光弘、そして泰光と、嫡子による相続がなされたのであろうが、譲渡・安堵の時期については明証がない。
泰光は嘉元二年(一三〇四)の譲状で、養子の二郎八郎分・三郎光俊分を除いて嫡子光頼に譲渡し、翌年、得宗北条貞時から外題安堵を受けている(史料五九六)。ただ次男「いや二郎」は「もとよりふてう(不調)のもの」であるうえ、「泰光にむけてのふるまい、ことさらきくわい(奇怪)」なので相続から排除された。泰光の養子の「二郎八郎」とは、「いや二郎」に代わる名乗りであったのかもしれない。
嫡子光頼は、嘉暦二年(一三二七)に、平賀郷を光高に譲渡する(史料六二七)。その後、元弘四年(一三三四)以降の地頭代職の動きは岩楯村の場合と同じである。建武元年(一三三四)ころには、先に触れた岩楯村女子跡知行の要求とともに、平賀郷の牧士田の返給をも申請している(史料六五八)。
その他、建武二年、勲功の賞として法師脇郷(比定地不詳)を得(史料六六四)、暦応四年(一三四一)には加土計郷(現弘前市門外付近)も預けられている(史料六八五・写真121)。またいつのころからか不明であるが、貞和三年には柏木郷(平賀町柏木町付近)を知行していることがわかる(史料七〇〇)。
写真121 曽我師助奉書