一四世紀ころに「城」と呼ばれていたものは、堀や矢倉、防御用の逆茂木(さかもぎ)、垣楯(かきだて)などが設けられていた簡単なものであった。一五世紀に入ってもその城館の形態はあまり変わらなかったようである。しかし室町期から戦国期の一五世紀末~一六世紀にかけて、城館は全国的に爆発的に作られ、その形態も従来の城館から大きく変貌(へんぼう)していくことになる。
その理由の一つには、軍事的防御機能が要求されてくることによる。そのために城館は、はじめ集落の近くに築かれ、台地や丘陵地を削平したり、切り込んで造られていた。しかし丘陵から遠い集落では、平地に城館を築かなければならなかった。そのような時には外側に堀を掘り、内側には土塁を設けるという手法も出現してくることになる。さらにこの時期の城館の特徴としては、要害を求めて山地に移り、軍事性とともに居住性も兼ね備えたものも出現する。しかし山上にあると軍事的には強力ではあっても、領地支配の面では弱体となってしまう。そのために戦国期の領主は、村落や湊や津などを支配するためにその中心にも居館を造ることが求められ、山城としての詰城(つめじろ)と、集落の中心に設けられた居館がセットとなる、根小屋(ねごや)式と呼ばれる城館もみられる。
また、戦国大名や有力国人領主の領国内で支城制と呼ばれる築城が、組織立てて行われていく。たとえば日本でも屈指の戦国大名といわれる、関東の小田原北条氏を例に挙げてみると、本城(根城)が直轄支城を置き、出張場に端城(はしじろ)を作るという連繋のようなものである。そしてこれら支城・枝城(えだじょう)・端城の中間地点には「繋ぎの城」「伝えの城」「境目の城」など、用途を別にする城砦(じょうさい)群が整備されていくのである。