普通、我々が老子の思想としてイメージするものは、無用ということの叡知であり、無為自然を尊ぶ脱俗的な人生観であって、それは「実用」価値ということに真正面から対立する考え方である。
しかし乳井によれば、儒家も道家も実は同じことを表と裏からいったもので、相互補完的な関係にあるということになる。天地の一切を「自然」というが、なお分けていえば「自然」には「天地ノ自然」と「人力ノ自然」とがある。たとえば、種をまいて芽が生ずるまでは「神ノ力」で「人ノ善ク為所(なすところ)」ではない。これを「天地ノ自然」という。芽を出した後これを培い成長させていくのは「人ノ力」であってこれを「人力ノ自然」という。「自然」は「神ト人ト(ノ)合一」であって、それゆえ「天人合一(てんにんごういつ)」ともいう。ところで老荘を「異端」視するものは、老荘を「天地ノ自然ノミヲ楽テ、人力ノ自然ヲ楽マザル」ものとする。しかし老荘ほどの人がこの「天」と「人」との統一の関係を知らないことがあろうか。実のところは、孔子が「人事を説て天道に行し」めんとしたのに対して、老子は「天道を説いて人事を示」さんとしたのである。
それでは老荘は「天道」の何を説いて「人事」の教えとしようとしたのか。もちろん「無為」である。が、世人はこの「無為」を「何モセズシテ只自然ノ儘(まま)ニ任ス」ことであるかのように説くが、これは誤解も甚だしい。乳井によれば「無為」とは「至誠ノ動キ有為ノ精極」である。「無為」が「有為ノ精極」であるとは次のような事態を指していわれる。側(はた)からみればあたかも無作為のようにみえて、その実一瞬たりとも休まないで、営々と「微ヲ積ミ」続けていくこと、それが「無為」ということの真意である。天地は「無為」のごとくに「微ヲ尽シ」知らぬまに四季を移り変わらしめて「大功」をなすが、これを「有為ノ精極」という。つまり、乳井は事を為すということの精髄を「微ヲ尽し」「微ヲ積ミ」、その様「無為」のごときものととらえ、老荘はこの奥義を説き明かしたものと解するのである。乳井はこのような「無為」、すなわち「有為ノ精極」の生きざまを独楽(こま)の動きになぞらえる。「独楽」は静止して動いていないようにみえるが、これこそ「動キノ至レル者」である。独楽が倒れることなく静正した状態を保ちうるのは、独楽の軸が勢いよく回転して、「息ムコトナキノ微ヲ尽」しているからに他ならない。この独楽の動きに象徴されるようなあり方こそ、「微ヲ尽スノ極致」の姿である。ここに彼は人間の、否、より細かくいえば「武門」に生まれた者の、生き方の究極の姿をみたのであろう。