明治の新政府が、欧米列強に伍して近代国家の仲間入りを果たすために、かなり性急な欧化主義を採り入れ、わが国の社会経済の革新を推進しようとしたことは、開国までの経緯や列強に並ぶ軍事力を備えようとしたことからも知られるとおりである。これは、当時属国と化した東洋諸国における屈辱的な先例を目にしていたからである。そのような流れの中で、わが国の従来の衣食住や風習までもが、西欧人の目から見てなお未開、野蛮なものとして映ることを政府が恐れ、これを「陋習」とし、その民を「愚昧」と名づけて事に当たらざるを得なかったのは、当時としては仕方のないものであった。
しかし、「愚昧の民」の暮らしぶりを、すべて「固陋の弊風」として卑しめ、強圧的態度で「生活改善」に導こうとしたのはあまりに急進的であった。封建的なものから早急に脱皮させようとした努力とも言えたが、地域社会そのものの基礎的理解から出発して、実質的な民生の向上を図ろうというやり方ではなかった。いわば末節の現象を取り上げて、急速にしかも画一的に改変を押しつけようとするものであったから、この点、過渡期に見る指導の不手際も少なくなかったのである。