酒・たばこ・菓子などのいわゆる嗜好品にもまた新時代の大きな変化があった。酒はもともと晴れの日の飲物で、もっぱら盆・正月・村祭・冠婚葬祭の場合などに限られていたし、それも濫用したものではなかった。それが明治初年の軍事で青壮年の往還に酒が供されたり、世が治まると今度は官員とのつきあい酒が始まった。こうして酒が社交に用いられ、ひいては日常生活に酒を飲むという習慣が行われるようになったのが、明治の世の最も著しい現象である。
さらに、昔は、地酒ばかり消費されていたものが、明治になると上方の弁財船が運んできていた伊丹・大阪方面の銘酒類が旧藩の禁制も解けて一般に売り出されるようになったのも新しいことである。例えば白鳳(一升二〇銭)・世界長(同二〇銭)・正宗(同三七銭)・菊の栄(同一八銭)などで、男山・玉菊・春駒・剣菱などという酒もあった。なお、官員などの間には洋酒ブランデーが飲用されて欧化主義の一面が早くもうかがわれたりもした(『北原高雅日記』明治十四年)。
たばこは、昔から農家で自家栽培し、それをたばこ切りの道具(薄刃庖丁と函)で刻んで喫(の)んでいたものである。御家中でも農家や商家から葉たばこを買って、自分刻みをして用いていた。それで、たばこはどこの家でも煙管(きせる)さえ持っていけば遠慮なく喫ませてもらえるものであったし、今でも仕事休みを「一服する」という手軽な言い方が残っているように、休憩時の必需品でもあったのである。
明治になると、商品としての上方たばこが入ってくるようになった。蔦友印・金龍印・大漁印・阿波市印などの名で知られたものは、一箱二百玉入りで一四円三〇銭の売り捌きまであった。また、明治六、七年からたばこ切り機械が出て、自分刻みたばこは廃止になり、九年からはたばこの課税が行われるようになった。
弘前でこの早刻みの機械を使用して、いわゆるホロキたばこを始めたのは、松森町のたばこ切りの乙吉という者で、東京から金三円で機械を取り寄せたという。このころからたばこ入れは、筒付きの灰たたきのあるのが廃れて、腰差たばこ入れ(筒差(つつさし)ともいう)が流行するようになった。