後藤象二郎の動向

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このとき、後藤象二郎は時機至れりとして起(た)った。十月三日、芝の三縁亭に有志代表七十余人を招き、丁亥倶楽部を結成して大同団結運動の基礎をつくった。十月二十九日には諸県の委員四十余人を集めて建白書提出の申し合わせをし、まず、土佐の立志社系が三大事件建白書を提出、政府の秕政(ひせい)を糾弾した。政府は有志らの断固たる取り締まりを行ったが、民間の気勢はますます盛んにして政府の脅威となった。そのため、政府は、明治二十年十二月二十五日勅令でもって保安条例を発布、即日施行した。このため、内乱陰謀・治安妨害のおそれあると見なされた人物は皇居三里以内からの退去を命ぜられ、同月中に星亨・片岡健吉・中江兆民・尾崎行雄ら五百七十余人が退去させられた。
 しかしながら、この弾圧は志士の猛攻を一時防いだだけで、翌年四月二十二日東北有志の大会が福島の松葉館で開かれて、後藤も参加した。これを導火線に、後藤の大同団結運動は信州・越後・奥羽の各県を席巻し、さらに九月には埼玉・群馬・神奈川・千葉を風靡、大阪・九州方面に至るまで各々大会を開いてこれに呼応するありさまであった。全天下を挙げて「後藤出でずんば蒼生(人民)を奈何せん」と叫んだのである。

写真62 後藤象二郎