しかし、夏の終わり、弘前へ帰郷中に、主義に殉ずるために諦めたはずのせつと再会した。「断念してゐたのに突然のことで胸のしめつけられるやうな懐しさを覚へた」。二週間後、ついに結婚を決意した。
結婚は多くの人に反対された。佐藤の東京生活を経済的に支えてくれている叔父は最も強硬に反対した。しかし、諦めきれなかった。せつは北海道から弘前へ移り、就職していた。佐藤は東京へ出てから、小田桐孫一、大谷誠蔵、相沢文蔵、宮本誠三ら養生会の仲間に苦悩を打ち明けたところ、励まされ、ついに決心した。二人は十一月二十四日、太子堂の松ヶ丘荘に新居を構えた。
永遠に生き抜かん 人生の第一歩 結婚生活をはじめる。どこまでも二人は信じあって新しい人生の創造に努めねば已まない。亡き母よ およろこびあれ。
このころの佐藤の生活は、大学よりも自分らが設立した東亜問題研究会(のち東亜思想戦研究所)嘱託(しょくたく)として英国綜合経済研究所への出席が多く、さらに東亜連盟関係者、養生会仲間との会合、麹町(こうじまち)資料通信社嘱託で活躍し、連日多数の手紙発信、一日平均二円五〇銭の支出の生活で自分でも引き締めを決意している。ともあれ、思索、研究より憂国の志士的行動で常に人を訪ね、語り合った。論文を雑誌社に持っていくが、断られることが多く収入にならない。生活面では部屋代を入れて月一〇〇円の出費となった。
写真84 親方町冬景色