インフレーションの進行に歯止めをかけようと官民挙げて運動を行っているさなか、アメリカの占領政策に転換の兆しが現れてきた。アメリカは、多額の援助を必要とする日本経済の現状を改革し、自立的な日本経済の再建策を実施することを目指したのである。このため、昭和二十三年(一九四八)十二月に経済安定九原則を発表して、その実施を日本政府に迫った。その九原則とは、①政府歳出の削減による均衡予算の達成、②徴税強化、③金融機関融資の抑削、④賃金安定計画の立案、⑤物価統制の強化、⑥外国貿易・為替の統制強化、⑦配給制度の効率化、⑧国産原料・製品の増産、⑨食糧統制の効率化であった。また、主として最初の三項目により安定化を図り、単一為替レートを計画実施後三ヵ月以内に導入することを目標とした(森武麿他『現代日本経済史』新版、有斐閣、二〇〇二年)。
昭和二十四年(一九四九)に、経済安定九原則を実施するために、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが公使として日本に派遣されてきた。ドッジが指示して展開された経済政策をドッジ・ラインという。ドッジは、日本経済が、価格差補給金とアメリカの援助による輸入物資という二本の竹馬の足に乗っているとして、竹馬の足を短くするよう要求したのである。具体的には、昭和二十四年の政府予算につき、収支を黒字にする超均衡予算を組み、すべての補助金を削減し、復興金融金庫の融資をすべて打ち切ることにし、一ドル三六〇円の為替レートを設定した。これらはすべてデフレーションを進行させる政策であり、インフレーションはやみ、一転してデフレ状態となり、経済は安定恐慌と呼ばれる不況になった。
ドッジ・ラインの実施とほぼ同時期に、アメリカからシャウプ使節団が来日し、日本の税制を調査してその改革を勧告した。この勧告に従った税制改革が行われ、昭和二十五年(一九五〇)から施行された。この税制はシャウプ税制と呼ばれる。
ドッジ・ラインの実施により青森県経済も不況になり、昭和二十四年に、企業閉鎖が二五件に達した。また、このほか、企業の縮小も多数行われた。物価の低落も目立ち、弘前市内でも多くの食料品価格が下がった。昭和二十三年十一月を一〇〇とすると、同二十五年三月には、主食七九、肉類六九、鮮魚介類七一、調味料七一、繊維品三三、燃料七九であった(弘前市統計課『月刊統計』)。