柴田女子高の活躍

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昭和二十三年、柴田女子高等学校が誕生した。これは、三年課程の普通科・家庭科と別科からなる新制高校で、場所は旧野砲兵第八連隊の跡地である。これに手を加えて校舎としたのである。このときの増改築費は、三五〇万円を要したといわれているが、いち早く旧軍の施設の払い下げを受けて学校としたのは卓見であった。
 当時の柴田学園は、東北女子専門学校・柴田女子高・柴田中学校の学生・生徒合わせて一三〇〇人、教職員六三人の大所帯になっていた。加えて東北栄養学校を開設、さらに東北女専を発展的に解消させた短大設置の件が文部大臣から認可になって、昭和二十五年五月十四日には東北女子短期大学の開学式が挙行された。ところが、式が始まり、式辞を述べていた柴田やすが壇上で突然倒れ急逝したのである。柴田学園の理事長であり、校長や学長を兼ね、経営の全責任者でもあった柴田やすの劇的な死去の報は、各界に大きな衝撃となって広がった。

写真138 東北女子短期大学開学式で式辞を読む柴田やす学長

 昭和二十八年、家庭科教育の指導校として定評のあった柴田女子高は、文部省から「産業教育研究指定校」の内示を受けた。主題は「農村作業着並びに家庭着の研究」であった。柴田女子高では早速プロジェクト・チームを組み、まず、二十九年、「十二種の改善作業着」を考案するとともに普及にも力を入れ、翌三十年、県および全国の産業教育の研究者を集め、その成果を発表した。さらに、昭和三十二年には、今度は「津軽地方に於ける食生活の改善」をテーマとして二度目の指定校の指定を受けた。この二度にわたる指定と、近郊の婦人団体とも組んだ共同研究は、津軽全域に広く共鳴を呼び、大きな成果を上げたのである。