前田は教師就任を快諾、地区集会所を教室に、りんご箱を机にした学習が、十九年十二月一日から翌年三月末まで継続された。しかし、県からの認可はなく、私設分校という異例のものとなり、前田は無報酬で教育に当たった。昭和二十年十二月、季節分校一学級(四年生以下)が認可となり、本校から教諭一人が赴任した。ところが、地区の人々は児童全員の分校入学を希望し、本校への通学を拒否したため、村当局は教師二人を雇って、三グループに分けて授業を行った。翌二十一年四月には通年制分校が認可され、二学級編成となって一年生から六年生までを収容した。同二十六年九月、分校校舎新築工事に着手、十一月六日落成式を挙行した。
その後、昭和三十五年に至って児童数は一三〇人を超え、学級も五学級となったため、船沢小学校分校から独立校に昇格することになり、昭和三十六年(一九六一)四月一日、弘前市立弥生小学校として発足した。六学級編成で職員は八人、初代校長は藤林千秋である。
写真192 弥生分校時代の子供たち(昭和35年)