昭和四十四年度の教養部の保健体育の講義と実技の単位認定に関して、保健体育の講義では九人の学生の単位が不認定となり、女子体育実技については一人の学生の単位が認定されなかった。担当の岩岡教官に対し、当該学生のうち三人が不合格の理由説明を求めたが、回答が得られず、また、保健体育講義が不合格となった九人の学生が学生運動の活動家であることから評価の際に意識的な差別が行われたのではないかという憶測まで生まれ、教養部自治会にこの問題が持ち込まれた。
当初、静観していた教養部教授会も事態収拾に乗り出し、「単位認定問題に関する特別委員会」を設置した。さらに、教授会は、昭和四十六年には事実調査のための「調査委員会」を組織し、調査報告書を作成したり、教養部協議会(教養部に関する諸問題を協議する全学的機関)の判断を仰いだりした(これらの経過については『弘前大学五十年史』に詳しい)。同年七月、教養部教授会は岩岡教官に対する辞職勧告を決議したが、この決定に対する反対声明が四人の教養部教官から連名で出された。この反論に対し、教授会は教養部長名で「保健体育単位問題に関する教養部教授会の見解」を全学に公表した(同前No.五三九)。この公表の翌日には岩岡教官から反論の声明文が公表された。
結局、教養部教授会は岩岡教官の分限免職処分について評議会に上申し、その後は文部省(現文部科学省)あるいは人事院と大学との折衝に委ねられたが、最終的にはこの問題は文部省から辞令発令がないまま終わりを告げた。なお、九人の学生は再度試験を受けて、留年は回避できた。また、岩岡教官も昭和四十七年度以降は教壇に立つことなく定年退職を迎えた。