陸羯南は明治二十二年(一八八九)二月二十一日、大日本帝国憲法発布のその日に、新聞「日本」(同前No.七一八)を創刊し、その主筆兼社主となった。以来、三十九年に至るまで明治時代の言論界をリードし、政治学者の丸山真男をして「社説欄を担当し、その荘重深厳の文をもって、しばしば藩閥政府の心胆を寒からしめた」「最も輝けるイデオローグの一人」と言わしめた大政論家である。
羯南の舌鋒がいかに鋭く時の歴代藩閥政府を撃ったかは、新聞の発行停止日数の驚くべき数値がその証左となろう。すなわち、二十二年から三十八年までの間に、合計三〇回、延べ日数にして、実に二三〇日にも及んでいるのである。時の政府に真っ向から対峙したその人と思想は、今なお高い評価を得ている。