弘前初の洋風建築

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弘前で初めて、また、県内でも最古といえる洋風建築に取り組んだのは今常吉(こんつねきち)である。常吉は和徳の士族の出であるが、廃藩後いち早く文明開化の機運を察し、新しい洋風建築技術を身につけようと仙台へ赴いた。三年後に帰弘した常吉の力量を見込んで、最初の洋風建築を建設するチャンスを与えたのが、本県西洋医学の先駆者佐々木元俊(ささきげんしゅん)である。
 明治七年(一八七四)、本町一丁目に常吉の建てた佐々木元俊邸〔平成九年〔一九九七〕解体)は木造二階建てで、屋根は寄棟造(よせむねづくり)の柾葺(まさぶき)であり、小屋組は和小屋組であった。外壁はヒバ材の厚板(あついた)を矢筈張(やはずばり)としてペンキを塗り、軒天井にもやはりヒバ小幅板(こはばいた)を織り上げて仕上げていた。二階の窓は窓枠を取り付けた二重窓であり、外部のガラス窓は外側への両開きとし、内部の障子窓は室内側への両開きとなっていた。姿・形もさることながら、当時であれば輸入品であっただろうガラス入りの建具はそれだけで大いなる驚きであったに違いない。
 寄棟の小屋組は和小屋であるが、小屋梁と飛梁とを緊結する斜材の入れ方はどうみても陸梁の水平筋違いのようで、常吉は洋小屋の構造に精通していたものと思われる。現に彼は「角三」宮本甚兵衛呉服店の棟梁だったのではないかと言われ、「角三」の建物は、完全ではないが、洋小屋(トラス)の小屋組である。

写真290 元佐々木元俊邸旧状(昭和30年撮影)