(二)相撲王国

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青森県が相撲王国であること、特に弘前市を中心とする津軽地方が、数多くの名力士を産んだことは周知の事実である。戦前においては名大関一ノ矢が活躍したことはすでに述べた。戦後の大相撲を盛り上げたのが弘前市出身の名横綱若乃花(わかのはな)(花田勝治(はなだかつじ))であることは誰しもが認めるところであろう。昭和三十三年一月三十日付の『東奥日報』は「第四十五代目の横綱若乃花『土俵の鬼』嬉し涙」の見出しをつけ、次のように報じた。
二十九日の番付編成会議で横綱に推薦された若乃花に対する協会からの使者として、高島理事、湊川検査役の二人は、同日午前十時四十分東京阿佐ヶ谷の花籠部屋で口頭で伝達した。席上高島理事から『本日の番付編成会議で役員と横綱審議会が満場一致で横綱に推薦されました』と伝えれば、若乃花も『横綱として恥かしくない相撲をとります』と答え、うれしそうに頭を下げた。四十五代目横綱の伝達を終った。
(資料近・現代2No.六九八)

 横綱若乃花の誕生である。以後は大相撲の歴史に燦然と輝く名勝負を残すことになる。わけても長い大相撲の歴史の中でも初めてのことだという、横綱同士の、しかも全勝での対決は、今も語り草になっている。相手は数数の名勝負を繰り広げてきた横綱栃錦である。この対戦にみごと寄り切って勝ち、全勝優勝を成し遂げた。若乃花をして「私の相撲人生の中でも最高の大一番」と言わしめた名勝負であった。昭和三十五年三月二十日の春場所千秋楽、結びの一番のことである。
 横綱としてはむろんだが、親方としても横綱隆の里(たかのさと)、二代目横綱若乃花、大関貴ノ花(たかのはな)を育てたばかりではなく、相撲協会の理事長としても十全にその力を発揮した。まさに弘前市が生んだ最高の横綱であろう。
 平成五年八月十日、弘前市運動公園エントランス広場に初代若乃花像が建立された。

写真311 初代若乃花