政治・経済等

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No 年月日表記 西暦 できごと 備考
1 文禄元年三月 1592/3 秀吉、文禄の役で肥前名護屋へ全大名の参陣を発令、南部信直・津軽為信派兵。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p56
2 文禄元年 1592 秀吉の朝鮮進攻につき基地肥前名護屋へ為信在陣のところ、供御免につき秀吉に陣中見舞として再三将兵を派遣する。
3 文禄二年四月 1593/4 為信、京都へ上り伏見にて秀吉に面謁、津軽三郡合浦一円安堵の朱印を受入。
4 文禄二年 1593 近衛家を訪問して牡丹の紋を許される。これより桔梗之御紋を牡丹紋に改める。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p149
5 文禄二年 1593 この年、為信、屋敷を京都・大坂・駿府・敦賀等におく。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p109
6 文禄三年四月 1594/4 為信、堀越城に移り、神社・仏閣・商家などを集め城下町を形成。
7 文禄四年 1595 この年、津軽・南部の境を苅場沢とする。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p354
8 慶長元年二月 1596/2 為信、浅瀬石城を攻略、千徳氏を滅す(津軽統一完了)。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p107
9 慶長二年六月二十六日 1597/6/26 為信の次男津軽信堅死去する。
10 慶長三年 1598 この年、佐夫沢(寒沢)の鉱山開かる。
11 慶長四年 1599 為信、鎌倉の人左馬助建広を次女の聟となし大光寺城に置く。
12 慶長五年一月二十七日 1600/1/27 為信、従四位下右京大夫に叙任。
13 慶長五年八月 1600/8 徳川秀忠、関ヶ原の役へ出陣を促す御内書を発給、津軽為信出陣。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p364
14 慶長五年九月 1600/9 為信、大垣城攻撃に参加。留守中に堀越城で内訌あり。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p122
15 慶長六年九月 1601/9 為信、岩木山東南麓の百沢の地に下居宮(のち岩木山神社〈本殿〉)を再建。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p157
16 慶長六年 1601 この年、為信関ヶ原の戦功により上野国勢多郡で六ヶ村二千石加増。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p126
17 慶長七年 1602 家臣天藤氏によるいわゆる天藤騒動起こる(『津軽一統志』)。
18 慶長八年 1603 佐竹氏秋田移封につき、為信、使を遣し佐竹氏と領地交換(比内を佐竹氏に、深浦を当方へ)
19 慶長八年 1603 この年高岡(鷹ヶ岡とも、のち弘前)に町割を実施。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p79
20 慶長九年 1604 台命として山本新五左衛門・榎本清右衛門下向、幕命によって東奥の駅路に一里塚を築く。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p220
21 慶長一一年五月 1606/5 高岡へ移住を奨励、移住者には飯料を支給。
22 慶長一一年七月 1606/7 信枚、領知を得る。
23 慶長一一年十二月二十日 1606/12/20 為信の長子信建、京都にて没。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p157
24 慶長一二年二月十二日 1607/2/12 為信、刀五十振・鶴一羽を朝廷へ献上。
25 慶長一二年十二月五日 1607/12/5 為信、京都山科で没(五八歳)。
26 慶長一二年十二月二十三日 1607/12/23 為信三男信枚、幕命により家督を継ぐ。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p159
27 慶長一三年四月二十八日 1608/4/28 幕府指名の服部長門守附添にて信枚入部。
28 慶長一三年五月 1608/5 大光寺津軽左馬助建広、信建の子大熊の家督相続を幕府に訴える(正月幕府却下)。
29 慶長一四年一月十日 1609/1/10 幕府から左馬助建広追放令。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p160
30 慶長一四年一月二十一日 1609/1/21 建広側の叛従徒党不承知につき、信枚討伐。
31 慶長一四年六月 1609/6 浪岡の鞠沢新田開発。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p178
32 慶長一五年二月十五日 1610/2/15 高岡城(現弘前城)の縄張り、町割り定まる。
33 慶長一五年六月一日 1610/6/1 信枚、高岡の城を築き始める。
34 慶長一五年 1610 社寺の移転命令。
35 慶長一六年五月 1611/5 高岡城大体完成、堀越から移る。
36 慶長一六年六月二十五日 1611/6/25 信枚、徳川家康の養女満天姫を正室とする。
37 慶長一七年六月 1612/6 信枚擁立に貢献のあった、高坂蔵人、藩主信枚と対立、城中で謀殺される。
38 慶長一九年五月二十八日 1614/5/28 花山院忠長、蝦夷より津軽へ配流換え。
39 慶長一九年七月二十三日 1614/7/23 信枚、大坂城攻撃に参加進発の処、津軽は北狄押えとて帰国となる。
40 慶長一九年九月 1614/9 信枚、熊野三所権現へ願文を上呈。
41 元和元年 1615 この年、領内大凶作(南部領内も)。
本文参照ページ】: 通史編1(自然・原始)p235
42 元和二年三月五日 1616/3/5 越後米二百俵、七日に七百俵着岸。五月十四日幕府からの拝領米一万石到着。
43 元和三年 1617 荒廃田畑を調査し開発を奨励。開発者に救米を与える。
44 元和三年 1617 下の切(飯詰村より下)の荒田開発者を士分に取立てる。
45 元和四年九月十日 1618/9/10 津軽領と秋田領の境界について交渉を行う。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p161
46 元和五年六月十七日 1619/6/17 津軽に越後国に国替えの内命あり。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p167
47 元和五年七月十四日 1619/7/14 国替取りやめの旨、江戸から来報。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p170
48 元和六年十一月十七日 1620/11/17 中子開墾。
49 元和六年十一月十八日 1620/11/18 深浦ならびに柏木派立。
50 元和七年三月二日 1621/3/2 国替の議発生の際、随従を願出た八三騎に加増あるいは新知を与う。
本文参照ページ】: 通史編2(近世1)p172
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