解題・説明
|
この「分間御城絵図」は、延宝2年(1674)11月4日の日付を持つ弘前城(ひろさきじょう)の絵図で、縮尺は田舎間(いなかま)で2分1間(300分の1)である。石垣・土塁の高さ、櫓台の位置・大きさ、塀の長さ、堀の幅・深さ、橋の位置などの細かな記載がみられ、この段階における弘前城の構造を知ることができる。 弘前城は、津軽平野南部、南から北に伸びる台地の北端に位置し、南から北に流れる土淵川、岩木川、駒越川に囲まれた約2キロ四方の地域に営まれた。絵図において明らかなように、南北(画像の左右にあたる)に長く、東西に短い矩形を呈している。 天正18年(1590)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から津軽の領有を認められた津軽為信(つがるためのぶ)は、文禄3年(1594)それまでの本拠だった大浦城(おおうらじょう)(現弘前市大字賀田(よした)・同大字五代(ごだい))から堀越城(ほりこしじょう)(現弘前市大字堀越)に移り、あわせて家中、神社仏閣、商家なども堀越へ移住させた(「津軽一統志」)。さらに為信は、慶長8年(1603)、当時高岡(たかおか)と呼ばれていた現在の弘前の地に町割を行い、慶長11年5月には高岡への移住者に対して、飯米・材木を支給するなどの奨励策を打ち出した(「館越日記」)。 為信死後、その三男で家督を相続した信枚(のぶひら)が同15年(1610)から同地に築城に着手し、2月5日に家臣の東海吉兵衛が縄張を行い、3月5日に斧立の式が行われた。「六月朔日甲戌ノ日己午ノ時高岳ノ城ヲ築始メル也」と、本格的工事は6月から開始されたと読むことのできる史料(「信枚公一代之自記」国文学研究資料館蔵津軽家文書)も存在する。築城にあたっては家臣団から人夫が必要に応じ提供され、在方からも日割人夫を徴発し、江戸など他地域から数百人もの大工・職人が呼び集められて工事にあたった。石材は近隣の兼平(かねひら)(現弘前市兼平)・市内茂森付近と考えられている石森などから切り出し、大光寺城(だいこうじじょう)(現平川市大光寺)・浅瀬石城(あせいしじょう)(現黒石市高賀野)・黒石城(現黒石市境松)など近辺の古城からも運搬されたという。また用材は、碇ヶ関(いかりがせき)(現平川市碇ヶ関)・蔵館(くらだて)(現南津軽郡大鰐町大字蔵館)・石川(現弘前市大字石川)付近の山から平川を流して運搬し、岩木川上流からも川を使って運搬したと考えられている。四の丸の北門(亀甲門(かめのこもん))が大光寺城、三の丸の内北門(賀田門(よしたもん))が大浦城から移されたという話が残されているように、周辺の古城の建築物、あるいはその部材が活用された可能性もある。大量に必要とされた鉄材は盛岡藩領の田名部(たなぶ)(現むつ市周辺)から求めたが、さらに陸奥湾沿岸、外浜(そとがはま)の小国村(おぐにむら)・蟹田村(かにたむら)(現東津軽郡外ヶ浜町)に職人を呼び寄せて供給した(「津軽一統志」「津軽旧記」「津軽旧記伝」)。信枚は、翌年5月、城の大部分が完成した段階で堀越城より移った。弘前城は縄張から1年3か月ほどの短期間で一応の完成をみたことになる。以後、弘前城は、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで津軽家代々の居城となった。 城は、本丸、小丸(こまる)(内北(うちきた)の郭(くるわ))、二の丸、三の丸、四の丸(北の郭)、西の郭の六郭で構成され、城郭研究上、平山城(ひらやまじろ)に分類されている。東西に5町40間(約615メートル)、南北は8町46間(約950メートル)あり、総面積は14万4206坪(0.98平方キロメートル)に及ぶ。本丸を中心に、その北に内北の郭、内堀を挟み東と南に二の丸、さらに堀を隔てカタカナのコの字形に囲むように三の丸、その北に四の丸(北の郭)、本丸西側に西の郭が位置している。このような郭の配置は輪郭式に分類される。本丸に石垣が積まれているほかは、すべて土塁に囲まれている。北、東、南の三方には三重に濠が巡らされていた。外堀は底がV字形の薬研堀(やげんぼり)、内堀は底が平らな角堀(かくぼり)となっていた。絵図が描かれた当時、西方は広大な池状の堀と岩木川(いわきがわ)の流れによって守られていた。 城地の最も高所(標高46メートル)にある本丸は、二の丸との間を隔てる水堀から「下乗橋(げじょうばし)」を渡り、馬出し(武者溜(むしゃだまり))を通って、正面に構えられた桝形(ますがた)を経て内部に達する。その西側は崖上に石垣を築き、北側には水堀が設けられ、これも石垣が築かれ、現在「鷹丘橋(たかおかばし)」とよばれる橋を経て内北の郭に達する。東側は水堀を隔てて二の丸と接するが、「石垣ツキカケ」との記載から、この絵図作成時点では石垣が部分的に積まれていなかったことが見て取れる。築城から約30年を経た正保年間(1644~1648)における弘前城の姿を描いた「津軽弘前城之絵図(つがるひろさきじょうのえず)」(国立公文書館蔵)にも石垣が描かれておらず、築城当初からこの箇所には石垣は築かれていなかった。現在我々が目にすることのできるこの部分の石垣は、幕府からの許可を得て、元禄7年(1694)から同12年にかけて築造されたものである。南側は石垣を築き、馬出し、さらに二の丸と水堀を隔てている。門は北と南にあり、櫓台が南東、南西、北西にあり、それぞれに櫓があった。「津軽弘前城之絵図」の本丸南西隅は「てんしゆノあと」という記載がある。築城当初、弘前城には五層の天守(てんしゅ)が聳え立っていた。この天守は、寛永4年(1627)9月5日に失われた。落雷で炎上し、堀に崩れ落ちながら、内部に貯蔵された鉄砲の火薬に引火、大爆発して四散するという喪失であった。部材は城下郊外の高杉・賀田(弘前市)まで飛び散り、内部に保管された武器・武具、さらに文書・記録類などが失われたといわれる(「津軽一統志」)。 内北の郭は本丸と二の丸・三の丸と水堀で区切られ、四の丸とは和徳堰(わとくぜき)(二階堰(にかいぜき))と呼ばれる用水とその上の崖によって区切られている。北東隅には櫓台が構えられ、三層の子(ね)の櫓が建てられた。その東南隅には社があって、築城時に館神が置かれた。稲荷がまつられていたが、維新後、神像の奥に豊臣秀吉の小座像(現在、革秀寺(かくしゅうじ)蔵)が人知れず置かれ、祀られていたことが明らかになった。現在櫓跡と館神の跡は整備され、遺構展示がなされている。 二の丸は本丸の東と南に構えられ、その北・東・南は水堀で三の丸と隔てられていた。南には内南門があり、水堀上には現在「杉の大橋」と呼ばれる橋がかけられ、三の丸に通じていた。東には内東門が置かれていた。北東・南東・南西にはそれぞれ三層の丑寅櫓(うしとらやぐら)・辰巳櫓(たつみやぐら)・未申櫓(ひつじさるやぐら)があり、辰巳櫓の西北に時を告げる太鼓櫓(たいこやぐら)があった。三の丸は二の丸の北・東・南にコの字形に構えられた郭で、南方に南門(追手門(おうてもん))、東方に東門(外東門)、北に内北門(賀田門)がある。また西側には西坂門が開かれている。東・南・西側は堀によって城下と隔てられていた。四の郭は内北の郭、三の丸の北方に接した郭で、北側に外北門(亀甲門)がある。外堀で城下と隔てられていた。西の郭は本丸西方の幅の広い堀と岩木川とで区切られており、三角形の形状をなしている。南西隅に未申櫓があり、その傍の埋門で西坂下と通じていた。 築城以来、二の丸、三の丸、四の丸は侍町になっていた。「藤田雑集」(国文学研究資料館蔵津軽家文書)に収めるところの、天和2年(1682)8月に作成された「弘前城郭所々蔵并屋敷付諸色置所之覚」によれば、空き屋敷も含めて二の丸6、三の丸68、四の丸69、城内の一部とみなされた西坂下の侍町(現馬場町)には30の屋敷割がなされ、侍屋敷のほか、米蔵、武器蔵、馬屋、馬場、鷹部屋などが置かれていた。元禄9年(1696)・宝永2年(1705)に、郭内の武家屋敷が城外に移された(「御本丸二三四之御郭御絵図」解題を参照のこと)。 また築城当初は、西浜街道(鰺ヶ沢街道)に通じている四の丸の北門(亀甲門)が追手門であったが、寛文5年(1665)に参勤道を碇ヶ関街道(いかりがせきかいどう)(羽州街道)に変更してからは、追手門が三の丸南門に変更されている。 現在、弘前城跡は、城下町に作られた寺院街で、万一の際の防御施設ともなる長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)と新寺構(しんてらがまえ)、さらに、堀越城跡(ほりこしじょうあと)や家祖の光信(みつのぶ)が南部久慈から入部したとされる種里城跡(たねさとじょうあと)(現西津軽郡鯵ヶ沢町)とともに、「津軽氏城跡 種里城跡 堀越城跡 弘前城跡」として国の史跡に指定されている。全国的にも近世城郭が三の丸を含めて大部分が藩政期の姿をとどめて残されている例は稀であり、また文化7年(1810)に再建された三層の天守(三層櫓)を始め、創建当初から残されている櫓、門などの建造物も現在に至るまで良好な形で残されている。(千葉一大) 【参考文献】 森林助『津軽弘前城史』(弘前図書館、1931年) 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 『青森県百科事典』(東奥日報社、1981年) 『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』(平凡社、1982年) 『絵図に見る弘前の町のうつりかわり』(弘前市立博物館、1984年) 千葉一大「津軽10万石の居城 弘前城の築城」(長谷川成一監修『図説 弘前・黒石・中南津軽の歴史』郷土出版社、2006年) 長谷川成一監修『弘前城築城400年 城・町・人の歴史万華鏡』(清文堂出版、2011年) 弘前市教育委員会編・発行『弘前の文化財』(2017年)
|