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目録ID mp000123-200010
タイトル 御本丸二三四之御郭御絵図
タイトル(カナ) ゴホンマル ニ サン シ ノ オンクルワ オンエズ
タイトル(ローマ字) Gohonmaru ni san shi no onkuruwa on'ezu
タイトル関連
タイトル関連(カナ)
タイトル関連(ローマ字)
欧文タイトル
タイトルに関する注記
作成者
作成者(カナ)
作成者(ローマ字)
出版・製作者
出版・製作者(カナ)
出版・製作者(ローマ字)
製作年 延宝4年(1676)
製作年終
数量 1舗
形状
大きさ
大きさ(縦) 330cm
大きさ(横) 276cm
媒体
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記 写 天和2年(1682)8月6日改(吉村場左衛門)
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年
内容年終
内容 御郭内の家中屋敷割及居住者の姓名の記あり
内容(カナ) ゴカクナイ ノ カチュウ ヤシキ ワリ オヨビ イジュウシャ ノ セイメイ ノ キ アリ
内容(ローマ字) Gokakunai no kachu yashiki wari oyobi ijusya no seimei no ki ari
解題・説明 この絵図は延宝(えんぽう)4年(1676)11月28日の日付があり、その時点における弘前城の構造を示した絵図である。大きさは東西間(横)276㎝・南北間(縦)330㎝、縮尺は田舎間(いなかま)で2分1間(300分の1)となっている。
 櫓(やぐら)や番所(ばんしょ)などの建造物の位置、石垣(いしがき)や土塁(どるい)の長さや高さ・幅、郭の面積(坪数)などが細かく記されている(長さは田舎間を用いている)。また、絵図の右下隅には張り紙があり、石垣や土塁が「出ル」「入ル」などと記されている。これは郭の形状により、石垣や土塁などが始点となる位置からみて内側・外側に張り出したり入り込んだりして構築されているという状態を示しているものと考えられる。例えば、一箇条目にある本丸の東側の石垣の記述を例にとると、「御本丸東ノ御石垣、北ノ方ニて東へ四間半出ル」とあるのは、本丸東側の石垣が南端から北(画面下方)に向かって、東に4間半ほど外側に張り出して築かれているということを示していることになろう。
 さて、正保元年(1644)に幕府が諸藩に命じて作成させた正保城絵図(しょうほうしろえず)のうち、「津軽弘前城之絵図」(国立公文書館蔵デジタル画像を参照されたい)は、築城から約30年経った時期の弘前城内の本丸御殿・櫓・門をはじめとする建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などのほか、城下の町割が詳細に描かれている。この絵図では、弘前城内の現在では二の丸・三の丸・四の郭(北の郭、四の丸)と呼ばれている区画の大部分が「侍屋敷」によって占められている。すなわち、初期の弘前城の郭内には武家屋敷が配置されていたのである。
 江戸時代前期の弘前の城下絵図や城郭絵図には、本図も含めて、郭内にあった武家屋敷の配置や規模、居住者についての情報が記されているものがある。弘前城下を描いたもっとも古い時期の絵図と考えられているのが、正保城絵図「津軽弘前城之絵図」の下書きとして描かれ、そののち控図として弘前に保存されたと考えられている「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)である。これによれば、郭内の武家屋敷の数は、二の丸に6、三の丸に67、四の丸49、城郭の一部として考えられていた西坂下(現在の馬屋町)に39の武家屋敷を数えることができる。
 以後の郭内武家屋敷の変遷については、本サイト上で確認可能ないくつかの弘前城下の絵図を用い、それらの情報からたどってみることにする。慶安2年(1649)の「弘前古御絵図」(同図解題参照)では、二の丸に屋敷5、うち空き屋敷(明屋敷)4と蔵2、三の丸は屋敷69(うち空き屋敷10)、四の丸に同じく49(うち空き屋敷6)と御鷹部屋・星場・塩硝小屋、西坂下には屋敷38(うち空き屋敷4・馬屋3)と材木場が確認でき、万治2年(1659)の「津軽弘前古絵図」(同図解題参照)では、二の丸に屋敷7(うち空き屋敷5)、三の丸に同じく70(うち空き屋敷5)、四の丸に同じく51(うち空き屋敷3)、西坂下に同じく33(うち馬屋3)がみられる。寛文13年(延宝元年、1673)の「弘前中惣屋敷絵図」(同図解題参照)では、二の丸には津軽家一門や重臣の杉山(すぎやま)家・大道寺(だいどうじ)家などの屋敷6(うち空き屋敷1)と藩の蔵1、三の丸には藩主信政の弟津軽玄蕃政朝(つがるげんばまさとも)や重臣の北村・棟方・渡辺・傍島・進藤・一丁田(いっちょうだ)・間宮などの屋敷が70、四の丸にも同じく51と藩の作事場があり、西坂下には屋敷34と藩の紙漉所(かみすきじょ)が見える。
 本絵図の記載を見ると、二の丸には7つの屋敷割があり、うち空き屋敷が2、蔵屋敷1となっている。それまでの絵図との差異は、東門を入って西、突き当り内堀のそばに馬屋が一か所設けられている。三の丸には67の屋敷割があり、うち空き屋敷が7、御客屋敷1、御評定所1、長泉院(ちょうせんいん)(1631?~1713、三代藩主津軽信義の側室せん、「悪戸御前(あくどごぜん)」として知られる)屋敷が1となっている。南門・東門・賀田門(よしたもん)のそばには御番所、二の丸内東門に通じる連絡口の脇、内堀のそばには腰掛が設けられている。四の丸には51の屋敷割があり、うち御鷹部屋が1、御普請場1がある。また外堀の外側、岩木川(樋ノ口川(ひのくちがわ))に挟まれた場所には御作事場・御材木場・御普請場が設けられた。西坂下には35の屋敷割があり、うち空き屋敷2、馬屋4、的場1、星場1、御紙漉所1、馬場1がみられる。なお、この絵図が描かれた同じ年に、二の丸に馬場が設けられたが、この絵図には記入されていない。
 城内から武家屋敷がなくなったのは、元禄年間に入ってからのことである。元禄8年(1695)2月、始めて郭内からの屋敷替えが命じられ、翌元禄9年以降移転が本格化した。まず元禄9年11月~12月に、三の丸堤添両側(東・南側)から移転が始まり、翌年閏2月から4月にかけては三の丸・四の丸の武家屋敷が一斉に移転を始め、在府町(ざいふちょう)・笹森町(ささもりまち)・五十石町(ごじっこくまち)・瓦ケ町(かわらけちょう)・若党町(わかどうちょう)などへ移転した。さらに、城内に残った大身家臣の屋敷も宝永2年(1705)3月に、三の丸の家老盛岡民部・津軽内膳・津軽玄蕃・堀五郎左衛門らの屋敷が追手門外の上白銀町(かみしろがねちょう)へ、同じく大道寺隼人・大湯五左衛門・杉山八兵衛・津軽平十郎・木村杢之助・津軽靱負らの屋敷が外東門外の下白銀町(しもしろがねちょう)へ移り、これによって移転は完了し、直前には空き屋敷を含めて郭内に146を数えた武家屋敷がすべて城の外へ移った。移転後には、二の丸に御屋敷・土蔵・宝蔵など、三の丸にも三の丸御殿のほか、評定所・山方・払方といった諸役所、籾蔵・板蔵などの蔵、四の丸には御作事方・御鷹部屋といった施設が置かれた。弘前城は、藩主の居住地と藩の政務機関のみが置かれた公用地となり、藩主権力の確立を明確に示すことにもつながったのである。(千葉一大)
【参考文献】
森林助『津軽弘前城史』(弘前図書館、1931年)
弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年)
『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』(平凡社、1982年)
山上笙介『青森県の文化シリーズ17 津軽の武士1』(北方新社、1982年)
『絵図に見る弘前の町のうつりかわり』(弘前市立博物館、1984年)
千葉一大「津軽10万石の居城 弘前城の築城」(長谷川成一監修『図説 弘前・黒石・中南津軽の歴史』郷土出版社、2006年)
長谷川成一「元禄の家臣団減少と郭外移転 弘前城下の屋敷替」(同上書)
長谷川成一監修『弘前城築城400年 城・町・人の歴史万華鏡』(清文堂出版、2011年)
弘前市教育委員会編・発行『弘前の文化財』(2017年)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 弘前図書館
原資料の所在地 弘前図書館
資料番号
管理記号 M6
カテゴリ区分 静止画
資料種別 絵図
資料分類(大分類) 津軽家文書
資料分類(中分類)
資料分類(小分類)
文化財情報
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自治体史掲載
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