解題・説明
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本史料は、宝永3年(1706)4月付で、弘前藩主である津軽越中守(信政(のぶまさ))名で幕府に提出された城郭修補絵図の控図である。 大名が城郭を修理するためには、幕府に申請し許可を受けることが必要であった。元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓(やぐら)・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられていたのである。 諸大名が城郭の修復普請を行う場合、手続きとして、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。本絵図では、本丸西側の石垣のうち、北寄りの部分が5、6間ほど、また南寄りの部分が6、7間ほど沈下しているとして、この2箇所の石垣と石垣の乗る土居(石垣下にある崖の部分)の修復を願い出ている。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、本絵図のように、ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく注記された。 なお、絵図裏面の注記によって、この絵図が、宝永3年4月16日の朝、幕府老中の秋元但馬守喬知(あきもとたじまのかみたかとも)のもとに弘前藩側が持参した修補絵図の控図であることがわかる。(千葉一大) 【参考文献】 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
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