文書名
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弘前藩庁日記(国日記)
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文書名(カナ)
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ヒロサキ ハンチョウ ニッキ クニ ニッキ
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文書名(ローマ字)
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Hirosaki hancho nikki kuni nikki
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別名
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文化元年3月30日条
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別名(カナ)
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ブンカ ガンネン サンガツ サンジュウニチ ジョウ
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別名(ローマ字)
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Bunka gannen sangatsu sanjunichi jo
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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御日記方編
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差出・作成者(カナ)
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オニッキ カタ
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差出・作成者(ローマ字)
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Onikki kata
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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文化元年(1804)3月
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作成年終
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数量
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108丁
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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30cm
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寸法(横)
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22.5cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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文化元年2月26日申請
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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文化元年(1804)、弘前藩では江戸幕府に申請し、弘前城の堀浚いと堀の土留石の修復を許可された。本史料は文化元年3月分の「弘前藩庁日記(国日記)」であるが、その3月30日条では、この修復許可されるに至る幕府への申請経緯が詳述されている。 市立弘前図書館に所蔵されている、弘前藩の公式藩政記録「弘前藩庁日記」(文献によっては「弘前藩日記」とも)には、国許における行政・司法・人事をはじめとする政務全般の動向を記した弘前城中での記録である「御国日記」(「国日記」とも)と、江戸における幕藩間交渉、藩主の交際、江戸留守居役の交渉、藩邸内のできごと、国許との連絡事項などを記した江戸屋敷(上屋敷)の記録である「江戸日記」の2種類がある。前者は寛文元年(1661)6月3日の4代藩主津軽信政の初入部の日から記録が開始され、元治元年(1864)年12月までの間、約3300冊が残されている。後者は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。記載期間は寛文8年(1668)5月11日の信政江戸到着に始まり、慶応4年(1868)2月晦日(30日)まで約1200冊が残されている。なお、「弘前藩庁日記」には写しや破本をどのように数えるかで文献によって差異がある。福井敏隆氏(弘前市文化財審議委員会委員長)によれば、冊数は「国日記」3308冊、「江戸日記」1226冊であるという。なお、江戸日記は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。 「弘前藩庁日記」には、藩政執行の上で先例を参照するためという目的があった(「日記役勤方之定」『新編弘前市史』資料編近世1、787号史料)。つまり、藩政期には藩政執行上必要な行政文書として保管され、実用されていたのである。「御国日記」は、藩の各部署で作成されていた記録の記事が集大成されたもので(「御国日記」天保3年6月28日条)、また「江戸日記」も同様に江戸における諸種の留書を整理したもので、したがって、史料として「弘前藩庁日記」は二次史料として位置づけられる。 「御国日記」の記載内容は、まずその月初めに、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行・勘定奉行・物頭・青森在番の人名が列記され、日々の記事は、月日と天候が記されたあと、その日登城した家老・用人・大目付の名、次に祭祀・仏事・行事や藩主の公的行事について記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替え・家禄増減・家督・改名・縁組などの武士身分に関わる事項、武士のみならず町人・百姓身分にまで及ぶ賞罰記事、各方面の申し出・届け出・願い出とそれに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、その飛脚がもたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記されて終わる。「江戸日記」は、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、以下本文の形式は「国日記」同様である。 藩政組織には、日記記録の専門部署として、「御日記方(おにっきかた)」が設けられていた。延宝3年(1675)に定められた前出の「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録していかなければいけないと定められていたが、時代が下がり、行政組織で取り扱う事項が膨大となり、また御日記方でも藩庁日記以外の諸種の記録も扱う状況になると、日々それぞれの分掌から差し出される膨大な記録を藩庁日記という形にまとめ上げることが困難になり、記事内容の省略が行われたり、清書の滞りを促進させたりする措置がとられたりしている(なお、「弘前藩庁日記」については、筆者が執筆した『新編弘前市史 通史編2近世1』233~235頁の記述をもとにした)。 本史料の文化元年3月30日条によれば、前年の夏から申請に向けての準備が進められており、幕府役人に問い合わせたところ、堀浚いを実施する堀の長さを明記するよう求められた。そこで秋に弘前から委細をしたためた書状と実施箇所の絵図面を江戸に送ったところ、年が明けて2月15日に月番老中土井利厚(どいとしあつ)の屋敷に弘前藩留守居役(るすいやく)(御聞役)の雨森権市がそれらを持参して、土井家の用人にうかがい出たところ、土井家の用人から願いの趣について伺書を調えて提出するよう指図があったため、翌16日に土井家へ伺書と下絵図を持参して用人に提出した。 同月22日、土井家の用人より津軽家留守居役に対して明日留守居役が出頭するよう呼び出しがあり、雨森が赴いたところ、提出した絵図にこの通りの内容で差し出すようにと付札を付して指示があった。26日に土井の屋敷に雨森が再び赴いて正式の願書を提出したところ受領され、3月10日に願い通り許可が下りた。この折土井家の用人より雨森に手交されたのが別項の老中連署奉書(「弘前城堀浚并土留石修補願之通仰付之儀御奉書」を参照されたい)である。内容は修補絵図に示された本丸外堀南北の折り回し一か所、同じく本丸の堀東の方の折り回し一か所、本丸西側の堀(蓮池)の周囲折り回し、西の郭の外堀南西の折り回し一カ所、二の丸の堀南東の折り回し一カ所、北の郭外堀南北の折り回し一か所、三の郭南方の外堀一か所、同じく南東の方角の南から東への折り回し一か所、同じく東方の堀一か所で、自然に埋まったり、あるいは先年(寛政10年、1798)の洪水によって泥が流入したりした堀浚いと、すべての堀において欠けている土留石の修補を認められた。「連々(れんれん)」とあるので、普請の年限等は限定されておらず、堀浚い・土留めの修理を継続して行うことが許されている。なお、連署した老中は戸田采女正氏教(うじのり)・牧野備前守忠精(ただきよ)・青山下野守忠裕(ただひろ)・土井大炊頭利厚の4人である。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年) 松平(上野)秀治「記録」(『日本古文書学講座 第6巻 近世編Ⅰ』雄山閣出版、1979年) 羽賀与七郎「弘前藩庁日記」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年) 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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津軽家-27
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管理記号
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TK215-1-2467
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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城郭補修資料
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資料分類(大分類)
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津軽家文書
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資料分類(中分類)
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弘前藩庁日記
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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参照データ
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自治体史掲載
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