旧崇広堂
【指定区分】 | 国指定 |
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【種別】 | 史跡 |
【所在地】 | 上野丸之内 |
【指定年月日】 | 昭和5年11月19日 |
解説
藤堂藩の藩校有造館の支校として、文政4年(1821)に10代藩主藤堂高兌によって建てられた。崇広堂の名前は、中国の書物『書経』からとったもので、講堂(写真)に掲げる扁額の文字は米沢藩主上杉鷹山(治憲)の筆による。東側は講堂を中心とした文場、西側が武技場や馬場を有する武場として用いられ、藩校に通有の孔子廟がなかったことが特徴である。嘉永7年(1854)の安政伊賀地震で大きな被害を受けたが、文場を中心にいち早く復興し、講堂・講師控室・有恒寮・門・塀などは今も当時の様子を伝えている。近代になると武場は学校用地として使用され、現在は崇広中学校の敷地となっている。また、文場は図書館として用いられた後に保存整備事業が実施され、現在は一般に公開されている。関連資料・関連ページ(別画面が開きます)
歴史探訪 旧崇広堂