解題・説明
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内野太郎左衛門重信は、はじめ大庭彦次郎といい、黒田長政が筑前入国の際に、烏尾峠で出迎え、馬一頭を献上し、備前兼房の刀を賜り、名島城までお供した。さらに慶長12年(1607)12月28日、父重保の80石に20石の加増を加えて100石の知行を宛行われた。宛所は内野村庄屋彦次郎とあり、この時に地名を姓として内野太郎左衛門の名を賜り、代官ならびに狩奉行を命じられ、犬数匹を預けられた。 しかし、常に福岡に召し出されて近習の勤めを果たした。 その後、8代目内野太郎左衛門荘(号元華)は『済民草書』を著し、農政の要諦をまとめた。9代目・10代目では町奉行助や勘定奉行などを務めた。 この代官目録は、元和4年(1618)1月22日に出されたものであり、穂波郡のうち内野村・馬敷村・北古賀村・大豆田村・内住村・阿江(恵)村・宗像郡土穴村の都合2800石余を証するものである。
【翻刻(ほんこく)*】 代官目録 穂波郡 一五百四拾四石壱斗三升弐合 内野村 同郡 一貮拾六石壱斗四升九号 馬敷村 同郡 一貮百五拾石 北古賀村 同郡 一九百六斗五合 大豆田村 同郡 一貮百六拾貮石六斗七升一合 内住村 同郡 一九百七拾四石壱斗六升 阿江村 宗像郡 一八百廿三石三斗三升 土穴村 都合貮千八百九拾石四升七合 元和四年 正月廿二日 長政(朱印) 内野太郎左[ ](衛門ヵ)
*古い時代の文字を読み取り、活字化(テキスト化)すること
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