内容
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常陸下妻の武将多賀谷氏の家伝。漢字かな交じり、一部カナ交じり。安土桃山時代の修理大夫重経の事跡を詳しく記す。重経に至る家系については、左衛門尉家政(武州崎玉郡騎西之庄多賀谷の里の住人、桓武天皇の後胤金子十郎家忠の次男、暦仁元年藤原頼経公上洛の随兵となり)―弥五郎重茂(射藝に名を得、御旗本となる)―五郎景茂(頼嗣公に仕え、建長3年鎌倉の弓始を務める)―彦太郎家経―五郎政忠―彦太郎家茂―弥五郎政朝―平三郎光義(結城満広の子)―彦四郎氏家(鎌倉将軍成氏の命により享徳3年、結城成朝と共に上杉憲忠を討ち、三方に染みた首の跡に因み瓜の上に一文字の定紋と常州真壁郡33郷を賜り下妻城に住む)―家植(天文10年、小田の幕下を攻める)―政重(佐竹義重と結び小田を攻める)―政経(元亀3年勅使西三条大納言実澄を受け入れ北条と和睦、天正2年北条方の天神城を落とす)―重経、とする。重経の事跡は、天正7年、河原毛の馬を信長に献上。天正8年、谷田部城を北条勢に落とされるが、取り返す。天正13年使札を秀吉に献ず。天正18年秀吉の小田原攻めに参加、結城晴朝の幕下に属す。天正19年高麗御陣に際し、重経は病気のため三男大田の虎千代が結城秀康に属し名護屋に下るが、讒言により重経は勘気を蒙る。天正20年井伊侍従・榊原式部少輔が上意により下妻に下る。以上までを記して「実録終」とあり、次に「追加/多賀谷重経追放之事」でその後について記す。重経は石田三成陰謀の人数たることが露顕し、慶長6年家康の命により榊原康政・伊奈忠次が下向、追放を申し渡され、井伊直政に随い彦根に行き元和4年に逝去。更に「多賀谷離散之事」「多賀谷後編」「下妻城由来」「下妻城主次第」の4項に子孫の動向と下妻城の略史が記される。彦太郎家宣は佐竹義宣に随い秋田に行き、出羽国檜山1万石の城主となる。左近太夫三経は結城秀康に随い福井に行く。
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