成立
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附記全文「此画の故よし/むかし徳川の流いや栄にさかえし文政の頃十一代の将軍とたゝへし太政大臣源家斉公殊に驕奢をつくしたまひしかある時御側役なる新見伊賀守をめしていま三かのつに大夫或は花魁とかいふあそひめありときけともみるによしなけれは三都より名ある画工ともを殿中によひつとへておのかくに++のさまを画かしめよとのたまはするに新見ぬし仰をかしこみやかて京都より素絢難波より蘆国東都より春暁を撰みて殿中に召よせられぬ此えらみにあつかりたる三たりもこよなきめいほくなりとてちからをつくして一ひらのきぬに合作して奉りしにいたく愛させ給ひしか公のかくれさせたまひて後これを新見ぬしにたまひそのゝち故ありて信州松本の老臣林監物ぬしに譲りつたえられしかは遂に林家の宝とはなりぬいま監物ぬしの令息翠松園の陸夫ぬしわか名古屋に携きてつねに愛ものせらるゝを去年のなつ西京の画伯水野香圃ぬし久しく翠松園につゑをとゝめてふんてをとられたる末わかむくらふにもしはし起ふしして画かれたれはそかつきてかのぬしに請ふてそのまゝをうつしちゝめぬさてその画さまのわか業ひにゆかりあると京の大夫かはこいたもてるのちなみによりてこれを新としことほく料となしその事からのめつらしきを親しきまろうとたちにもみせまゐらせんとてかくなむ/明治二十六年といふとしの睦つき愛知郭金波楼のあるしつゝしみてまうす(朱瓢形刻印「金波」)」。絵の落款「香圃写(朱刻印「香圃」)」。原画の落款等はなし。左端に「戌の新としをほきて/蓬莱の峯や黄金の雪の花/殊更に恵方の君や初便り/〈名古屋郭〉金波楼翁(朱刻印「高田」)」。「戌の新とし」とあるが、明治26年は癸巳で不審。
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