小田家は、八田四郎知家を祖とする。知家は治承4年(1180)源頼朝の伊豆挙兵を助けて武者所に、元暦元年(1184)の平氏との戦いでも功を上げ従五位下右衛門尉に任ぜられている。これにより知家は、鎌倉幕府においての地位を確保し、その後子孫は代々要職についている。
のち7代治久は、正慶元年(1332)に足利高氏(尊氏)らと六波羅を攻め、後醍醐天皇を助けて建武の新政を成し遂げた。建武3年(1336)尊氏が反旗を翻し、天下は大乱となり南朝と北朝による戦いが始まり、暦応元年(1338)に義良親王の東下に伴い、常陸に入った北畠親房を治久が近郷諸将と共に助けて小田城に迎えた。(この時、親房が有名な『神皇正統記』を著した。)しかし、北朝方の高師冬らの攻撃に親房らは小田城から関城に逃れ応戦するが、康永2年(1343)関城が陥落し、親房らは吉野にもどり、南朝方は次第に足利氏に降参し服した。
このように常陸・下総に勢力を誇った小田家も15代氏治の時に、豊田家とともに佐竹・結城・多賀谷氏らとの戦いに敗れ、名門小田家は滅んでしまった。
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