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小田家遺品
(小田家の兵法)
小田
家遺品 /
小田
家の兵法 「
小田
家遺品」には、近世における
小田
氏の当主が重んじていた兵法の相伝に関する史料が含まれている,近世には伊予松山藩(愛媛県)久松松平家に仕えた
小田
家の由緒は、文書(案文)3点を軸装した「兵学受来次第,これは、享保乙巳年(享保10年、1725)に
小田
家当主八田太郎左衛門朝栄(道邇、節翁、倍侃)によって巻子,とされたもので、その子
小田
成朝による元文5年(1740)9月朔旦(1日)の奥書も付されている。 ,「兵学受来次第」によれば、
小田
常陸介(天菴か)の子である八田左近は、
小田
原北条氏の滅亡後に関白豊臣秀次 /
小田
家の兵法
小田家遺品
(常陸小田家とは)
小田
家遺品 / 常陸
小田
家とは
小田
家は、八田四郎知家を祖とする。,始まり、暦応元年(1338)に義良親王の東下に伴い、常陸に入った北畠親房を治久が近郷諸将と共に助けて
小田
城,しかし、北朝方の高師冬らの攻撃に親房らは
小田
城から関城に逃れ応戦するが、康永2年(1343)関城が陥落,このように常陸・下総に勢力を誇った
小田
家も15代氏治の時に、豊田家とともに佐竹・結城・多賀谷氏らとの戦,いに敗れ、名門
小田
家は滅んでしまった。 / 常陸
小田
家とは
小田家遺品
(東源軍鑑 巻之二)
小田
家遺品 / 東源軍鑑 巻之二 原本で見る 東源軍鑑後録 一
小田
城ハ天正二年,ニ落城藤澤モ同年土浦 モ同年ニ落城也 一
小田
城主ニハ梶原美濃守景國天正二年居 也其後下妻多賀谷修理大夫重經
小田
城主,ハ筑波郡ニ属シ本城凢二町四方惣 構十七八町四方ニテ
小田
繁昌ノ時分軍地 齋地信田田伏トテ
小田
四天,ヲ迎撃
小田
ノ先鋒岡見 彈正無二無三ニ敵間ニ乘込味方ヲ勇シテ血 戰シ遂ニ討死ス敵多勢ニテ
小田
勢大,改]彦太郎守治ハ愛子故家嫡ト成玉フ 天菴公初部屋住ニテ小太郎君トテ
小田
城 ニ御座アリシニ其項
小田
原
小田家遺品
(東源軍鑑 巻之一)
小田
家遺品 / 東源軍鑑 巻之一 原本で見る 東源軍鑑目録 巻之一 佐竹義信公與
小田
天菴公確執之事, 梶原北条真壁謀叛之事 手葉井山合戰之事 北条出雲守真壁入道乗取
小田
城之事 信田和泉守重成籠城之事, 巻之四 君嶋合戰之事附佐竹勢
小田
北条江馳加事 藤澤落城之事附由良判官武勇之事 ,時変化自然之理也爰ニ本朝 人皇之始神武天皇ヨリ百七代ノ帝正親町 院ノ治天ニ當テ常陸國之住人讃岐守
小田
,ニ及ントセリ雖然扱ニヨツテ一度ハ和談 ニ成ニケリ 梶原北条真壁謀叛之事 讃岐守
小田
天菴氏治公
小田家遺品
(誓約)
小田
家遺品 / 松平備中守 定静(花押) 寶暦十二壬午年九月廿四日
小田
太郎左衛門殿
小田家遺品
(起請文前書)
小田
家遺品 / 右條々於相背者蒙軍神之冥罰武運 可危者也 寶暦五乙亥年五月十三日 朽木舎人鋪綱
小田
太郎左衛門殿
小田家遺品
(友治とその子孫)
小田
家遺品 / 友治とその子孫 友治は、
小田
讃岐守氏治の側室(芳賀喜兵衛貞利娘[芳賀局])より生まれ、貞利と氏治の間,がされていたが、正室(水戸城主江戸但馬守藤原忠通娘)に彦太郎守治が生まれたために家督を譲られず、祖父と共に
小田
原,天正18年(1590)豊臣秀吉の
小田
原征伐により流浪し、従兄弟速水甲斐守の力添えで関白秀次の近臣として
小田家遺品
(東源軍鑑 巻之三)
小田
家遺品 / 氏治公詠歌之事附守治夜討之事 土浦合戰之事 原本で見る
小田
合戰之事,ノ合戰ニ打負
小田
北条ノ兩 城ヘ楯籠片野入道申サレケルハ此上ハ我 々手勢斗ニテハ氏治退治セン事不可叶佐,る ヲ指向ントテ御家門額田四郎義房塩井内 膳正信利ヲ兩大將トシテ其勢一千餘騎加 勢ノタメニ北条
小田
,ヲ乘取ント申ケレハ氏治公可 然迚
小田
ヘハ彦太郎守治ヲ大將トシテ其 勢五百餘騎北条ヘハ菅谷左衛門尉正光,ニテ防ント河岸迠打 出矢軍ヲ社シタリケル守治何迠カアイシ ラハントテ河ヲ渡シ抜連打テ掛ル
小田
勢
石下町史
(小田氏の発展)
小田
氏の発展 「
小田
家風記」という、おそらく江戸時代にまとめられたと思われる、戦国時代の
小田
氏の給人八百余名,三万石という戦国時代当時の領地高はともかく、豊田氏が
小田
氏から「外家大名」という江戸時代でいえば「外様大名,」のような格を付され、
小田
氏にとっては同盟者的な立場にあったことは考えられるところである。 ,
小田
氏は鎌倉以来の北関東における名族であり、源頼朝によって常陸守護職に補任され、はじめ八田を姓していたが,、のち筑波郡
小田
に移り
小田
を姓するようになった。 /
小田
氏の発展
水海道市史_上/下
(小田城争奪戦)
そこへ佐竹義重が来援したが、家臣の茂木上総介は
小田
原方の伏兵にあって敗退した。,って氏治を藤沢に追い
小田
城を奪った。,
小田
城の争奪はまるで競技の勝負そのものであった。 ,さらに由良は
小田
守治らと共に強敵を
小田
城に追い込んでいる。,
小田
からの援軍は野中瀬・沼尻又五郎らの三〇〇余騎で金村台に陣した。 /
小田
城争奪戦
小田家遺品
(解説)
小田
家遺品 / 解説 原本を見る 近世初期の4通の文書を軸装した巻子であるが、いずれも
小田
家との,忠知もまた寛永11年(1634)8月に早世し、蒲生家は断絶するが、これに代わって伊予松山を治めたのが
小田
家
水海道市史_上/下
(小田氏と柳橋氏)
小田
氏と柳橋氏 佐竹氏の束縛から脱しようとする馬場城の江戸氏は、佐竹氏と争うことになった。,天文一四年(一五四五)佐竹氏が
小田
氏と通謀すると、江戸氏はこれに備え戦ったが破られている。,
小田
政治は、大掾慶幹が、
小田
氏の幕下の小川城主園田氏を後援するをみて慶幹を悪(にく)み天文一五年(一五四六,
小田
氏の後援の真壁城主真壁氏幹は武勇衆に勝れ筋鉄入りの丈余の樫棒を揮って人馬を仆し夜叉のように振舞った,結城の部将水谷兄弟も武勇絶倫であったので意気投合したもののようで、共に
小田
、下妻に打撃を加えようとした /
小田
氏と柳橋氏
小田家遺品
(兵法奥義極秘傳巻)
小田
家遺品 / 吾兵家全勝之 秘奥実在于茲矣、可不畏乎、人君深秘旃勉旃、 宝暦六丙子夏四月良辰 小幡景憲四伝
小田
成朝頓首拝書
水海道市史_上/下
(小田氏の動向)
小田
氏の動向 顕時から戦勝の報は親房や
小田
治久のもとへ直ちに伝わった。,治久は飯沼砦の村、青鳥(おおとり)(猿島路の大通りで大鳥、青鳥と宛字される)を
小田
宗知の子宗己の開基した,
小田
治久の子孝朝は宮方として若犬丸を匿っていたが、[嘉慶元年/元中四年](一三八七)小山氏の親身で下河辺氏出自 /
小田
氏の動向
小田家遺品
(東源軍鑑 巻之四)
小田
家遺品 / 巻之四 原本で見る 東源軍鑑巻第四目録 君嶋合戰之事附佐竹
小田
北条江馳加,山上ノ佐竹勢ニ肝ヲ消シ是モ陣 ヲ引テ一矢ニテ守治菅谷一所ニ成内談ス ル樣ハ我々七八百騎ノ軍勢ニテ
小田
北条,日藤澤ノ城攻落サレケレハ寄手ノ軍勢ハ 即城ヘ入替ル 寄手評定之事附氏治公手分之事 尓程ニ
小田
佐竹
小田家遺品
(東源軍鑑 巻之五)
小田
家遺品 / 有血ハ流テ大地ニ溢レ死骸ハ行 路ニ横テ累々タリ郊原ノ如也嗚呼此日如 何成日ソヤ天正二年二月廿七日
小田
十五,ケルハ悲シカリ シ次第ナリ 原本で見る 虵沼合戰之事 讃岐守
小田
天菴氏治公滅亡
水海道市史_上/下
(佐竹・小田・結城氏の帰趨)
小田
氏を追い出して
小田
城には太田資正と梶原政景父子があったが佐竹に身を寄せていた。,氏房は驚き脱して豊田城の重経を頼り
小田
原への詑び言を取り次いでもらった。,
小田
原落城すると北條氏直と共に秀吉に高野山に放たれて、月山に没している。 ,太田資正(三楽斉)は、
小田
原を包囲している秀吉に召された。,兄弟は先年、
小田
原へ擒(とりこ)に置かれ居 城金山を相渡すよう北條から仰付られて
小田
原へ相渡した / 佐竹・
小田
・結城氏の帰趨
石下町史
(豊田・小田氏と多賀谷氏の抗争)
豊田・
小田
氏と多賀谷氏の抗争 文明年間以降、永禄期にかけての多賀谷氏と
小田
氏の関係はどうであったろうか,以後、多賀谷氏は
小田
氏とともに結城氏に対抗し、
小田
氏は宇都宮氏とも結んで結城氏に対抗していった。,
小田
氏治は
小田
城へ帰ることができず、土浦城へ入り、一方結城軍は
小田
城を占領したという(「結城家之記」),この戦に際し、
小田
氏に与していた豊田氏が援軍を派遣したことは充分に考えられるところであり、また
小田
氏の,しかし、八月の末に
小田
氏治は
小田
城への帰城をはたし、結城氏に奪取された
小田
領の多くを再び取りもどすことに / 豊田・
小田
氏と多賀谷氏の抗争
石下町史
(「小田氏治味方注文」と豊田氏)
「
小田
氏治味方注文」と豊田氏 豊田氏が与した
小田
氏は、上杉謙信の永禄三年の関東出陣以降、これに従っていたが,そのため翌七年一月には謙信は、佐竹・宇都宮氏とともに
小田
城を攻めている。,さらに同年十一月には佐竹氏が
小田
城を再び攻め、
小田
氏治を土浦へ敗走させている。,「(包紙ウワ書)
小田
ミかたの書付」
小田
みかた(味方)のちり(地利) 一つちうら(土浦),作られた時期ははっきりしないが、前述のような上杉・
小田
氏の抗争期に上杉氏方によって
小田
氏に味方する地利 / 「
小田
氏治味方注文」と豊田氏
水海道市史_上/下
(豊田・小田勢下妻勢を破る)
豊田・
小田
勢下妻勢を破る 多賀谷重政が、豊田氏幕下の袋畑、その他を服し、さらに吉沼の原外記を滅ぼしたことは,豊田治親は、永禄元年(一五五八)五月に下妻勢が、また、豊田を窺っているので、飯見大膳らにはかり、防衛に
小田
,吉原・新井・小口・高橋・畑・増田・荒川らは城に籠り、
小田
よりは菅谷左衛門・沼尻又五郎(家忠)戸崎ら九〇〇, 已後弥々可レ抽二忠節一 豊田四郎 沼尻又五郎殿 この第二の感状をみると、
小田
/ 豊田・
小田
勢下妻勢を破る
小田家遺品
(小幡流用兵指南書)
小田
家遺品
小田家遺品
(小幡流用兵法奥義書)
小田
家遺品
小田家遺品
(上杉景勝書状)
小田
家遺品
小田家遺品
(毛利輝元書状)
小田
家遺品
小田家遺品
(片桐且元書状)
小田
家遺品
小田家遺品
(赤穂浪士、小野寺・近松両氏 書翰)
小田
家遺品
石下町史
(永禄末から天正へ)
一方、
小田
氏治は、永禄十二年十月佐竹義重に攻められ
小田
城を退き、翌元亀元年一月、土浦城へ入った。,なお土岐氏はのち江戸崎・竜ケ崎城を拠点に勢力をもち
小田
氏に従った。,したがって総可は
小田
氏に属していたのであるが、元亀元年(一五七〇)一月、
小田
氏に滅ぼされてしまう。,岡見氏も「
小田
氏治味方注文」に「一 うしよく(牛久) おかミ(岡見)の山しろ(山城)」とあって
小田
氏,なつながりをもった土岐氏が
小田
氏に従っている以上、臼田氏も
小田
氏に従っていたのであろうと思われる。
石下町史
(豊田治親の感状)
東国戦記実録」という戦記物によると永禄元年(一五五八)多賀谷重政が豊田領へ侵入したため豊田氏はこれを
小田
氏,「東国戦記実録」の記述でとくに興味深いのは、その時豊田氏が
小田
軍のうちの「沼尻又五郎」なる人物に与えた,Ⅳ-5図
小田
氏晴感状写(つくば市 沼尻隆氏蔵) 永禄二年九月、
小田
氏治は結城へ侵攻し、結城晴朝,撃退したが、その後、同年の末ごろから翌年にかけて、晴朝の関宿在陣の留守をねらって多賀谷政経は佐竹義昭、
小田
氏治,上杉謙信と、古河公方を擁立する北条氏康は、関東支配の正統性を主張し対立したために、結城・小山・宇都宮・
小田
氏
石下町史
(石毛豊田氏と向石毛城)
二子-城ヲ於向(ムカヒ)-石-毛杉-山ニ一曰二西館ト一」とあり、また「多賀谷七代記」には「豊田中務ハ
小田
天庵,文明年間、
小田
氏の当主は天庵=氏治ではなく成治であり、誤って伝えられたのであろうが、豊田政治は石毛城に,このいわば石毛豊田氏ともいうべき系統は、前述のように多賀谷家植に属する前は
小田
氏の旗下にあったようであるが,点に注目し、さらに治親の(義カ)弟政重は、
小田
氏治の(義カ)甥にあたるという関係(『趣味の結城郡風土記,知られ、また
小田
氏のいわば目下の同盟者的な立場にあったとも考えられるのである。
水海道市史_上/下
(菅谷氏、土浦城謀略)
菅谷氏、土浦城謀略 天正元年(一五七三)、
小田
氏治(天庵)は
小田
城を乗っ取られ藤沢に退いた。,この間、真壁・北條(北條城主)氏らは藤沢を囲んでいたが、長陣となり油断をしたので、
小田
守治(氏治の子),に夜討ちされ、物具を着けるいとまもなく、兵は赤裸のまま
小田
に逃げ帰っている。
石下町史
(内乱下の常総)
十二月に入ってから、義篤は武生城から瓜連城に迫り、岩出河原(現金砂郷村)で
小田
・広橋の軍勢を破った後、,建武五年九月に入ると、北畠親房が東条浦に漂着し、
小田
治久、関宗祐、下妻政泰等の南朝側の武将に迎えられて,の居城の
小田
城(筑波城)に入った。,親房が常陸に滞在した約五年の間に、
小田
城で南朝側の立場から『神皇正統記』を著わしたといわれる。,も落ち、親房はやむなく
小田
城から関城(現関城町)に移らなければならなかった。
水海道市史_上/下
(北條氏康と公方晴氏)
藤氏(ふじうじ)(母は簗田氏)らを捕え、相模波多野に幽閉し、梅王丸(義氏をいう・母は北條氏)を公方とし
小田
原,弘治元年(一五五五)春、伊勢参宮の帰途、
小田
原にて、温泉療養中の大掾慶幹と会い共に氏康を訪ねて、
小田
氏領侵略,このころ
小田
氏は信田氏を滅ぼしたが自らも勢力を失っていた。それは次の失策による。,天文二三年(一五五四)
小田
氏治は土浦城主菅谷政貞の奸策を入れて、八月十五夜の月見の宴に託し、木田余(きたまり,七月になると
小田
氏治が大掾氏の府中領を侵すようになったので、義氏は氏治の侵略を中止させようとしたが及ばなかった
水海道市史_上/下
(海老島の合戦)
海老島の合戦 結城政勝が大掾氏と共に氏康に
小田
領侵略の企を謀ったことは前記した。,同年四月五日、
小田
氏の属城海老島城(真壁郡大村)を攻めた。,結城では部将らが馳せ付けて
小田
勢を撃退することができた。 ,
小田
氏に報復のため海老島城を攻め落とした。城主はよく替わったが、この時は平塚自省長信であった。,廿一日は
小田
在へ 陣を移して廿二日、
小田
氏治は在城のほか不動山へも上り防備している。
水海道市史_上/下
(北総勢と後北條氏の対立)
北総勢と後北條氏の対立 天正元年(一五七三)五月二一日、北條氏照(輝)、同氏堯の両大将は
小田
原を立った,柴(芝)崎城主荒木三河も合流して
小田
原勢に反撃したが、豊島・河村を始め多数戦死し首をあげられている。,時に
小田
氏が多賀谷に攻められることになったので、
小田
氏に援を乞われて踵(きびす)を廻らせたのは、岡見治部,ここに豊田勢、岡田勢がいないのは、下妻勢に攻められている
小田
氏を救援に赴いていたからである。,しかしやがて、この地帯は、
小田
原後北條氏の率いる南方軍と、佐竹・多賀谷の北方軍の決戦場となるのである。
水海道市史_上/下
(親房の常陸上陸)
この結果、
小田
、関、下妻、真壁氏の援軍と共に神宮寺城に拠ることになった。,しかしこの城も佐竹勢の兵船に攻め落とされ阿波崎を経て
小田
城に移った。,[延元三年/暦応元年](一三三八)一〇月より、
小田
城では親房を擁立し兵糧米を集め、関氏父子、下妻政泰、,後村上天皇は顕信(顕家の弟)を吉野から
小田
を経て奥州に入らせた。 ,時に高師冬は
小田
城に対峙していたが古河城に退却している。
水海道市史_上/下
(水海道勢の板橋城急襲)
水海道勢の板橋城急襲 氏治が
小田
城を落として後、領内、特に西南の鬼怒川に添った地帯は岡見一族らが半独立,多賀谷はこの形勢をみて、
小田
城の梶原政景と協力して天正一四年(一五八六)夏、小張城に只(唯)越全久を攻
水海道市史_上/下
(初崎築城)
去九日の注進状今一四日、
小田
原にて披見仍て其地を八崎(はつさき)と号する地は多賀谷重経が取立た ,天正一五年三月一四日、
小田
原の氏照より足高城主岡見中務少輔に宛てたものである。,天正一五年(一五八七)六月一六日、多賀谷勢は
小田
原方の援軍をはばむための鬼怒川堤を切ったりして戦ったが,を包囲するに当たって、八王子城主北條氏照が
小田
原に籠城するに及び留守を委任された両将である。,当時辺田には馬洗城があったが城主横瀬主膳は
小田
原没落と共に去った。
石下町史
(徳川氏の関東入国)
徳川氏の関東入国 北条氏政・氏直父子(後北条氏)が、
小田
原を本拠として関東八か国の統一を目指していたころ,天正十八年七月、関東に勢力をほこっていた後北条氏は、先の「関東奥羽総無事令」の停戦命令違反によって
小田
原攻略,同年五月二日、下妻城主多賀谷重経、下館城主水谷勝俊らを従えて
小田
原に入り、秀吉に拝謁している。,
小田
原が落城するとただちに関八州の国割りと奥羽出兵が始まるが、その中で、徳川家康は三河・遠江・駿河・甲斐,下妻の多賀谷重経は
小田
原参陣直後に所領を安堵され、結城氏に服属することを命じられたが、これを喜ばず、嫡男
水海道市史_上/下
(後北條氏滅亡の顚末)
後北條氏滅亡の顚末 関東地方における戦国争乱は
小田
原城主北條氏の滅亡をもって、その終末を告げたものと,多賀谷重経、下総の結城晴朝、水谷勝俊などもまた秀吉に誼みを通じ、さらに奥羽の伊達政宗も秀吉の催促に応じて
小田
原,まず討伐軍は三月二九日、相模国山中城及び伊豆国韮山城に攻撃をかけて、これをおとしいれ、ついで主力部隊は
小田
原城,しかし、なお肝心な
小田
原城はこれに屈せず、籠城をかさねること約四か月、その間、籠城軍のうちに内部分裂を
石下町史
(大久保忠増)
大久保忠増は慶長十九年(一六一四)に改易された
小田
原の大久保忠隣の血をひき、明暦二年(一六五六)、忠朝,元禄元年(一六八八)八月には職を辞し所領の一万石を返上するが、元禄十一年十月に一一万三一〇〇石の
小田
原藩主
石下町史
(鎌倉幕府の滅亡と新政の開始)
鎌倉幕府の滅亡と新政の開始 鎌倉時代末期の常陸・北下総地方には、依然として北条氏の勢力が強固で、豪族
小田
氏,筑波北条・田中荘の一部、南条片穂荘、信太荘、下妻荘、西郡北条、西郡南条、下河辺荘などに広がり、佐竹、
小田
,常陸にあっては、
小田
高知・時知・貞知、二階堂氏、伊賀氏、鹿島氏の一族塙政茂、徳宿幹宗、宍戸知時、税所久幹,むしろ
小田
治久と同様、新政府の統治下に入っても、常総の武士たちには返還されず、建武の新政府に対する失望
水海道市史_上/下
(多賀谷勢の退却)
この戦のころ、
小田
氏は常陸から退いて奥州にあったのであるが、かつて元の勢力範囲は、谷田部城・東輪寺城・,
小田
氏治・上杉輝虎に対抗した時、結城晴朝、山河氏重、水谷政村、多賀谷政経等と結んだが、自ら注文した味方,衛門尉] 一とき[土岐] 大せんの大ふ[大膳大夫] 以上九ケ所 当時、
小田
氏,そしてこのころ
小田
氏とは縁戚関係を結び互いに戦時には援け合いをしている。
水海道市史_上/下
(守谷城においての募兵)
天正元年(一五七三)五月、
小田
原勢が藺沼(常陸川・後の利根川)の彼方に布陣した時は、宗徒の侍六八〇余人,同五年の二回目は
小田
原勢が下妻勢に対するため、守谷に集めたので宗徒六四八人、雑兵合わせて三万四〇〇〇余中,次の約五〇名は第一回、
小田
原に対戦するための廻文と第二回、守谷からの廻文に二度とも着到した面々である。
水海道市史_上/下
(北條氏の没落)
幕軍のうちには常総からの、佐竹、
小田
、結城、千葉の各氏があった。 ,[元弘三年/正慶二年](一三三二)三月、天皇は隠岐に遷され、藤原藤房は
小田
治久が預かって藤沢城にかくまわれた
石下町史
(東国の内乱と古河公方家の成立)
この事件の背後には公方足利持氏と管領上杉氏憲の深い対立があり、特に氏憲家人越幡六郎(常陸
小田
氏族か)の,この内乱に際し、氏憲(禅秀)与党として動いた東国の領主層は、常陸では山入与義(佐竹氏族)及び庶子族(
小田
野,・稲木・酒出・長倉氏など)・
小田
持家・大掾満幹・小栗満重・行方氏がいる。,の伊東氏、相模の本間・愛甲・三浦氏、上野の里見・山名・那波・高山氏、下野の長沼氏、常陸の宍戸・筑波・
小田
氏,憲実与党(幕府軍)には常陸の佐竹氏族山入・
小田
各氏、下野の小山・宇都宮各氏がいた。
水海道市史_上/下
(後北條氏、多賀谷氏と和睦す)
重経は諸将を集め、寄手、由良国繁や大道寺政繁の大勢の外に、
小田
原の大軍が松戸に着したというがそれへの対策,時に
小田
原から使者が来て、豊臣秀吉が大軍を以て後北條氏を征伐に下るとの風聞があるから早々帰陣あってほしいとの
水海道市史_上/下
(河越の戦い)
そして、駿河の今川義元に同盟を求めたので、今川勢はこれに応じて
小田
原領内に攻めこんだ。,氏康は八〇〇〇の兵を河越城の南方砂窪に陣取らせて、
小田
政治の陣代菅谷政貞にたのみ晴氏に和を請うたが、笑殺,
小田
、佐竹、多賀谷、簗田、相馬氏等の公方側の援軍も崩れた。
水海道市史_上/下
(北総兵の結城参戦)
豊田氏も
小田
氏が攻城側になったのだが去就不明である。併し
小田
氏の同族筑波氏は結城方である。 , 思召[食]され候、仍て太刀一腰遣わし候也 (嘉吉元年)五月廿六日
小田
讃岐守,とのへ 右のように一族の筑波氏は結城方なるに
小田
氏は攻囲側である。
石下町史
(豊田治親の暗殺と豊田落城)
すなわち、その問題とは、おそらくめまぐるしく変わる政治状勢のなかで豊田氏が、このまま
小田
氏と与していくか,、あるいは
小田
氏と断って多賀谷氏と結ぶか、という政治的方向の模索を基因とする、給人たちの対立があったということであろう
水海道市史_上/下
(豊田氏滅亡)
こうして豊田郡を得た政経は、ついで
小田
領を侵し大曽根・若森・蔵持(大村倉持)・海老島を略して、白井を若森城主,として、さらに
小田
・北條を攻めさせた。
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