小田家の兵法

 「小田家遺品」には、近世における小田氏の当主が重んじていた兵法の相伝に関する史料が含まれている。それらのほとんどは小幡流の兵法に関するものである。小幡流は、甲州流・武田流などと呼ばれ、『甲陽軍鑑抜書』の著者としても知られる流祖小幡勘兵衛景憲が甲斐(山梨県)の戦国大名武田信玄が用いた兵法を体系化したものである。
 近世には伊予松山藩(愛媛県)久松松平家に仕えた小田家の由緒は、文書(案文)3点を軸装した「兵学受来次第」に詳しい。これは、享保乙巳年(享保10年、1725)に小田家当主八田太郎左衛門朝栄(道邇、節翁、倍侃)によって巻子とされたもので、その子小田成朝による元文5年(1740)9月朔旦(1日)の奥書も付されている。
 「兵学受来次第」によれば、小田常陸介(天菴か)の子である八田左近は、小田原北条氏の滅亡後に関白豊臣秀次に召し抱えられたが、秀次が失脚したため、連座することを恐れて逃げ、弟の修理亮とともに結城秀康に奉公した。しかし、再び牢人し、大坂の陣では大坂方に参戦した。結果として、修理亮は戦死し、左近は牢人して、後に病死した。
 左近の嫡子太郎左衛門(朝栄の祖父)は、京都で牢人を取り締まる京都所司代板倉伊賀守勝重の厄介となったものの、その家来となることは断り、美濃今尾(岐阜県)に居を移した。そして、元和3年(1617)に伊勢桑名藩主(三重県)松平定勝(徳川家康異父弟)に出仕し、寛永12年(1635)、2代藩主定行の伊予松山への転封後も仕えるようになったのである。この間に、母が芳賀伯耆守の女子であったことから、名字を芳賀、ついで波賀と改めた。太郎左衛門は寛永15年(1638)春に没したが、その跡には美濃の一類(親類)から山三郎が迎えられ、その弟喜太郎・八十郎とともに松山藩士となったという。
 朝栄の曾祖父八田左近、祖父波賀太郎左衛門は兵法に長け、後者は、小幡景憲の弟子、讃岐高松藩(香川県)松平家(水戸徳川家の分家)の客分であった小早川式部から小幡流兵法を相伝したと伝える。朝栄自身も、父および景憲の甥で跡を継いだ小幡憲行から相伝を受けたというが、「小田家遺品」には、波賀清太夫、すなわち朝栄に宛てられた兵法の免許状が4通含まれている。
 「兵法物語之趣」は元禄5年(1692)11月に平井加右衛門尉宗勝が免許したもので、奥書によれば、寛永3年(1626)に大樹(将軍徳川家光)から将軍家剣術となる新陰流の確立者柳生但馬守(宗矩)を通じ、京都紫野・大徳寺の高僧沢庵宗彭に尋ねたものという。また、「小幡流用兵指南書」「源義家公相承の方位書」「小幡流用兵法奥義書」は、元禄16年(1703)初春(1月)、同年仲春(2月)、および宝永4年(1707)初夏(4月)の小幡孫次右衛門尉憲行が小幡流兵法の相伝を許可した免許状である。朝栄は、新陰流などいくつかの兵法を学び、最終的に小幡流を重んじるようになったようである。
 朝栄以後の小田家当主は、小幡流兵学を指南する軍学者となったようで、兵学の相伝を許可する免許状も2点残されている。朝栄の嫡子太郎左衛門成朝の「兵法奥義極秘傳巻」(写本)は、宝暦6年(1756)4月に小幡景憲の口伝をまとめたもので、泉州太守森公(播磨赤穂藩主(兵庫県)森和泉守忠洪か)に相伝され、そのときの添え状の写しもある。また、成朝の孫である弾右衛門持寛(道純斎)の「兵学印可文」は、天保3年(1832)7月、菊池啓作に印可(免許)した免許状である。
 これらの史料から見ると、近世の小田家は、伊予松山藩において小幡流兵法の軍学者として広く活動していたことがうかがえる。
 なお、成朝は、江戸(東京都)の伴部安崇(重恒)が唱える垂加神道も相伝されている。「三種神器秘傳」は宝暦元年(1751)11月9日に根岸貞将(荒盬)から相伝された。主家の分家である伊予松山新田藩主松平備中守定静の同12年(1762)9月24日付け「誓約」(相伝時の誓約書)もある。小田家は、中世以来の名家に相応しく、学問的関心の高い家として存在していたのである。
 
解説:山澤 学(筑波大学人文社会系准教授) 2017.9
 
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