江戸時代の大生郷村のすがたは,村明細帳や農間渡世(農間余業)の書上などからうかがうことができる。
「村差出明細帳」によれば,幕末の安政2年(1855)には村高が1034石4斗3升,反別(面積)は154町2反58歩で,他に将軍から天神社(大生郷天満宮)の朱印地として寄進・安堵(保証)された大生寺領30石,江戸時代前期に開発された新田62石6斗8升1合(反別20町8反9畝18歩)がった。天保9年(1838)「下総国岡田郡大生郷村外五拾四ヶ村組合諸商ひ渡世向取調書上帳」によれば,家数(戸数)は95軒,人別(人口)は479人であり,寛延3年(1750)「差上申御請書之事」によれば,他に天神社領に門前百姓が37軒存在した。
領主支配については,寛永10年(1633)に古河藩領(土井利勝・利隆),万治元年(1658)に土井利長領となり,寛文3年(1663)に幕領(代官南条則綱・則弘)となった。貞享元年(1684)に駿河国(静岡県)田中藩領(太田資直)の飛地となったが,元禄11年(1698)に関東で実施された元禄の地方直しによって収公され,翌12年からは旗本興津・井上・竹本氏の三給となった。そして,飯沼新田開発にともなって享保10年(1725)に再び幕領となり,幕末まで続いた。
元禄地方直しに際して作成された「岡田郡大生郷村郷村御請取之節万覚書」からは当時,村内の平地林が耕地として開発されつつあったことや,西側に広がる飯沼でに殺生・もくさ船」,すなわち魚鳥漁猟のための小船や,藻草を肥料用に採集する小船が52艘も存在したことを読みとることができる。飯沼では享保年間(1716~36)に新田開発が行われ,飯沼新田31か村が誕生したが,そのうち大生郷村新田(天保9年に高259石4斗8合,家数82軒・人別486人)・伊左衛門新田(585石9斗3升9合,家数29軒・人別171人)は坂野家の請負地となった。
天保9年の農間渡世の書上を見ると,江戸時代後期の大生郷村には質屋,居酒屋,髪結,煮売,穀商,小間物商,荒物商,下駄・足駄拵商,古鉄・紙屑買,材木・薪・箱屋,伊左衛門新田に質屋,居酒屋、煮売,穀商,小間物・荒物・瀬戸物・古着・太物・材木・薪商が存在した。往来する人びとに飲食を提供し,周辺村々の日用品を小売りする,他種多様な生業が存在したのである。
解説: 山澤 学(筑波大学人文社会系准教授) 2019.3
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