江戸時代の村方における農業生産の第一は稲作である。田だけでなく畑や屋敷の地価も,石高制と呼ばれるように,検地(土地調査)の結果,米の収穫量で表された。農業生産は,領主から年貢や諸役と呼ばれる賦課の対象となった。坂野家文書には,年貢・諸役の納入を通知する年貢割付状や納付証明書である年貢皆済目録, 検見取法・定免法施行に関する文書類が多数現存する。寛永17年(1640)の年貢皆済目録は前欠ではあるものの,現在確認されている坂野家文書の中で最古の文書でもある。
幕領の年貢米は江戸浅草(東京都)の御蔵に収められたが,はじめて大生郷村が幕領となった寛文3年(1663)に,大生郷村の名主大膳・坂野監物の両名が代官から浅草御蔵への年貢納入を請け負った証文がある。これによれば,畑作物である荏・大豆への賦課も,米に代えて収められている。年貢米は,元禄年間(1688~1704)ごろは花島河岸,文化年間(1804~18)ごろには宗道河岸(下妻市)から津出しされ,鬼怒川,利根川,そして江戸川を経て江戸まで運ばれていった。
大生郷村では,安政2年(1855)「村差出明細帳」などによれば,畑地の石高(生産力)が田地の約2倍を占めており,小麦・粟などの五穀,燃料である水油を絞りとる菜種,普段使いの衣料となる木綿,嗜好品である煙草など換金作物が生産されていた。すなわち大生郷村の産物は商品とされていたのである。
安政4年(1857)「産物類取調書上帳」には,江戸へ出荷される薪(樹種は楢・松・雑木),矢作村(坂東市)・大塚戸村へ出荷される茶,水海道村へ出荷される木綿が大生郷村の産物として見える。同史料には,古間木村および村岡村(八千代町)の産物として,江戸へ出荷される楢・雑木の薪,沓掛村(坂東市)・石下村へ出荷する木綿が見え,また,飯沼新田のうち伊左衛門新田・古間木新田の産物として,江戸や岩井村(坂東市),水海道村に出荷される蓮根が見える。時代はさかのぼるが,正徳3年(1713)には,坂野伊左衛門が中田新田村(古河市)の年寄治兵衛から株(権利)を借りて酒造を行っているが,これも他国へ売り出されたものであろう。大生郷村は江戸時代を通じ,江戸や周辺の町場・河岸(川港)へと産物を移出し,それらの地の問屋商人と交流していたのである。
解説: 山澤 学(筑波大学人文社会系准教授) 2019.3
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