3. 初期飯沼の開発

 市域北西にかつて存在した飯沼は,結城台地と猿島台地に挟まれた,南北約24Km・東西約1km,周囲約50kmの湖沼であった。結城・猿島の両台地を二分する江川と両台地の開析谷とから集水し,鬼怒川に排水する一方で,鬼怒川からの逆水を吸収する遊水池としても機能した。人や物を運ぶ舟が行き交い,岸辺から舟で江戸に直行することもできたと言う。岸辺には,古間木村の荷揚げ場など港湾施設も存在した。坂野家文書は,享保年間(1716~36)の新田開発に先立つ江戸時代前期の飯沼が「大開発の時代」の最中にあったことを物語る。
 飯沼では,寛文6年(1666)に江戸大伝馬町1丁目(東京都)の商人伏見屋甚次郎が進出,出資して新田開発を試み,また,同9年(1669)には幕府の勘定奉行・代官が新田開発のために見分した。飯沼は,当該期の江戸における米価の急騰を背景に,新田を開発したい沼廻りの村々と投機的な江戸商人の思惑とが合致し,注目されたのである。しかし,現地では,過剰な開発を抑止する動きも見られた。
 開発を抑止したものの一つは,沼廻りの村々による飯沼の地先における既得権の主張であった。飯沼は,藻草採集・魚鳥漁猟など資源活用の場でもあり,沼廻りの村々がその権利を有していたのである。これらの資源も江戸商人の目を引いた。延宝2年(1674)に大輪村の弥次兵衛は,「江戸衆」(商人)と手を結んで大生郷,崎房,芦ヶ谷(八千代町)各村がもつ魚鳥漁猟権を奪取しようとする。それは,金20両(後に50両に増額)の上納を条件提示するなど,投機的な行動であった。大生郷村では惣百姓147名が一致して抵抗し,これを退けた。
 新田開発と資源活用の既得権をめぐる葛藤は,享保年間まで続く。元禄元年(1688)~3年(1690)に大生郷村が新畑・藻草場をめぐり古間木村と争う(※元禄3年幕府評定所裁許絵図)。宝永3年(1706)に大生郷村中で飯沼の干上がり地を割地する相談がなされる。正徳2年(1712)に飯沼の縁へ定杭を立てる願人がおり,大生郷村・鴻野山村・馬場村など沼廻りの19か村が「一同」して対抗する。翌3年(1713)には,大生郷村が秣場とする地先地の保全を旗本井上家に願い出る。享保2年(1717)に沼廻り24か村は,幕府代官手代が目指す沼の干拓に反対する。飯沼は,かかる「大開発の時代」を経て,享保年間の新田開発へと歩みを進めることになる。
 
解説: 山澤 学(筑波大学人文社会系准教授) 2019.3
 
坂野家文書一覧を見る


※元禄3年幕府評定所裁許絵図

〔史料 原文〕
     下総国岡田郡古間木村と同郡大生郷草野并飯沼藻草論裁許条々
一、去ル辰之十二月、双方諍論之時、古間木村新畑大生郷検地帳ニ載之、年貢収来儀無紛、飯沼運上并下草野銭御代官江収之候証文差出し之候、依之、大生郷可為理運旨、令裁許候、然ニ今度古間木村之者訴候者、論所之内畑際ニ植置候松・杉九千本余伐採、剰古畑続之古新畑堀荒由申出ニ付、(掘)大生郷百姓召寄、令対決処ニ、答候旨者、野銭場之内ニ有之松・杉、古来従大生郷令支配処ニ、古間木村之者盗伐候故、此方ゟも小松等百五拾本余苅採候、新畑之儀、古間木村より可荒之分其儘差置候故、堀散由申之、(掘)右論所不分明ニ付、為検使守屋助次郎手代山口太郎右衛門・太田弥太夫手代柳井弥市右衛門差遣、見分之上、遂穿鑿処ニ、第一地元之儀、六十年已前伊奈古半十郎御検地之節、後藤舟戸両村野境ニ相立、西者古間木村、東者大生郷ニ属し候旨、古間木村之者申之、証跡雖無之、舟戸より西ニ有之古田畑ハ皆古間木村高ニ入、舟戸より東、中丸谷ニ古間木村百姓抱候田地雖有之、大生郷高ニ結、致出作上者、従先規之境と相見え候、且又、論所野銭場之由ニ而証文雖令所持、証文之面名所無之、其上、去年大生郷返答書ニ野銭場之地十五町余と記之付、検使則町歩相改候処、舟戸より東之野十五町余ニ越候条、論野者為野銭場之外段無疑間、旁以古間木村為地元儀歴然也、然ニ論野之内ニ有之古新畑四反三畝余大生郷高ニ入、於尓今、古間木村より年貢収之儀為不審故、令僉儀処ニ、先年一領之時、田畑改之節、中丸谷出作之百姓開候分者大生郷江年貢可収納由、地頭申付候、其節、古間木村庄屋致逼塞候内ニ而、田地之案内ニも不出故、如此由申ニ付、隣郷之者ニ相尋処ニ、逼塞之儀無紛上者、大生郷高ニ入候謂相聞え候、其外、近年所々致新開候畑之内を去辰之冬諍論之砌、大生郷百姓論所より東一里余隔候しのほろ金戸之新畑水帳を論所之水帳と称し、大和田西東とあさ名を書加へ差出候儀、今度穿鑿之上、致露顕候、然則者後(ママ)藤舟戸より西之野者古間木村野ニ相定之間、向後、大生郷百姓一切不可入、但、四反三畝余大生郷高ニ入候分之畑年貢者如有来大生郷へ可収納之、其外之畑者古間木村之者可進退之事
一、大和田谷頭ニ有之茶木畑、大生郷之者新畑之由雖申之、見分之上、古畑と相見条、其儘差置、古間木村持主可支配之、且又、後藤舟戸古間木村古畑之間ニ有之地、大生郷ゟ新発雖致之、古間木之畑両傍ニ夾之、前々為古間木村荷揚場儀無紛条、新畑荒之、可為如先規事
一、飯沼藻草之儀、役銭出候村々者採之来候、古間木村之者古来役銭不出之処ニ、去辰之秋、猥ニ採之候付、押候旨、大生郷之者申之、検使於彼地ニ、近隣村々令穿鑿処ニ、役銭無之採来例七ヶ村有之、其上、魚鳥漁猟致之候村者役銭出之、藻草ニ役銭無之段、分明ニ候、然所ニ大生郷之者、去年以来古間木村之藻草妨之儀、不届也、向後、如先例、地先次第可採之事
一、今度大生郷之者、古間木村畑廻り風除之木伐候儀雖争之、検使見分之処、松・杉大小四千三百本余伐採、并根迄堀候跡有之而、狼藉之至也、且、(掘)古間木村之畑押而荒之、其上、他所之水帳を論所之水帳之由偽を構、所々致書加、殊ニ大生郷野銭証文を以、論所も為野銭場由申掠、段々以計策企訴論儀、依為私曲、大生郷庄屋両人令牢舎、且、村中百姓為過怠百石ニ三貫文出之、苗木一万本可植返之旨、申付事右裁断之趣、為後証、絵図之裏ニ記之、後藤舟戸境引墨筋、各加印判、双方江下置条、永可守此旨者也
 (勘定奉行稲生伊賀守正照)元禄三年庚午六月四日   稲伊賀㊞
                 (同松平美濃守重良)松美濃㊞
               (町奉行北条安房守氏平)北安房㊞
                (同甲斐庄飛騨守正親)甲斐飛騨㊞
              (寺社奉行本多紀伊守正永)本紀伊㊞
                 (同戸田能登守忠真)戸能登㊞
                 (同加藤佐渡守明英)加佐渡㊞
翻刻文を縦書きで読む(PDF)
 
〔史料 読み下し〕
下総国岡田郡古間木村畑と同郡大生郷草野并びに飯沼藻草論裁許条々
一、去んぬる辰(元禄元年)の十二月、双方諍論の時、古間木村新畑大生郷検地帳に載せ、年貢収め来たる儀紛れ無し。飯沼運上并びに下草野銭御代官え収め候証文差し出し候。これに依り、大生郷理運たるべき旨、裁許せしめ候。然るに今度古間木村の者訴え候は、論所の内畑際に植え置き候松・杉九千本余り伐り採り、剰へ古畑続きの古新畑掘り荒らす由申し出すに付き、大生郷百姓召し寄せ、対決せしむるところに、答え候旨は、野銭場の内にこれ有る松・杉、古来大生郷より支配せしむるところに、古間木村の者盗み伐り候ゆへ、此方よりも小松等百五拾本余り苅り採り候。新畑の儀、古間木村より荒らすべき分その儘差し置き候ゆへ、掘り散らす由これを申す、右論所分明ならざるに付き、検使として守屋助次郎手代山口太郎右衛門・太田弥太夫手代柳井弥市右衛門差し遣わし、見分の上、穿鑿を遂げるところに、第一地元の儀、六拾年已前伊奈古半十郎御検地の節、後藤舟戸両村野境に相立て、西は古間木村、東は大生郷に属し候旨、古間木村の者これを申す。証跡なしと雖も、舟戸より西にこれ有る古田畑は皆古間木村高に入り、舟戸より東、中丸谷に古間木村百姓抱へ候田地有ると雖も、大生郷高に結び、出作致す上は、先規よりの境と相見え候。且つ又、論所野銭場の由にて証文所持せしむると雖も、証文の面名所これ無く、其上、去年大生郷返答書に野銭場の地十五町余りとこれを記すに付き、検使則ち町歩相改め候ところ、舟戸より東の野十五町余りに越し候条、論野は野銭場の外たる段疑ひ無き間、旁以て古間木村地元たる儀歴然なり。然るに論野の内にこれ有る古新畑四反三畝余り大生郷高に入れ、今に於いて古間木村より年貢収むる儀不審たるゆへ、僉儀せしむるところに、先年一領の時、田畑改の節、中丸谷出作の百姓開き候分は大生郷え年貢収納すべき由、地頭申し付け候。其節、古間木村庄屋逼塞致し候内にて、田地の案内にも出でざるゆへ、かくの如き由申すに付き、隣郷の者に相尋ぬる処に、逼塞の儀紛れなき上は、大生郷高に入れ候謂はれ相聞え候。その外、近年所々新開致し候畑の内を去んぬる辰の冬、諍論の砌、大生郷百姓論所より東一里余り隔て候しのほろ金戸の新畑水帳を論所の水帳と称し、大和田西東とあざ名を書き加へ差し出し候儀、今度穿鑿の上、露顕致し候。然らば則ち後藤舟戸より西の野は古間木村野に相定むる間、向後、大生郷百姓一切入るべからず。但し、四反三畝余り大生郷高に入り候分の畑年貢は有り来たる如く大生郷へ収納すべし。その外の畑は古間木村の者進退すべき事。
一、大和田谷頭にこれ有る茶の木畑、大生郷の者新畑の由申すと雖も、見分の上、古畑と相見える条、その儘差し置き、古間木村持主支配すべし。且つ又、後藤舟戸古間木村古畑の間にこれ有る地、大生郷より新発致すと雖も、古間木の畑両傍に夾み、前々古間木村荷揚場たる儀紛れ無き条、新畑これを荒らし、先規の如くたるべき事。
一、飯沼藻草の儀、役銭出し候村々はこれを採り来たり候、古間木村の者古来役銭出さざるところ、去んぬる辰の秋、猥りにこれを採り候に付き、押さへ候旨、大生郷の者これを申す。検使彼の地に於いて近隣村々穿鑿せしむるところに、役銭これ無く採り来たる例七ヶ村これ有り。その上、魚鳥漁猟致し候村は役銭これを出す。藻草に役銭無き段、分明に候、然るところに大生郷の者、去んぬる年以来古間木村の藻草妨げる儀、不届きなり、向後、先例の如く、地先次第これを採るべき事。
一、今度大生郷の者、古間木村畑廻り風除けの木伐り候儀争うと雖も、検使見分の処、松・杉大小四千三百本余り伐り採り、并びに根まで掘り候跡これ有りて、狼藉の至りなり。且つ、古間木村の畑を押さへてこれを荒らす。その上、他所の水帳を論所の水帳の由偽りを構へ、所々書き加へ致し、殊に大生郷野銭証文を以て、論所も野銭場たる由申し掠め、段々計策を以て訴論を企てる儀、私曲たるに依り、大生郷庄屋両人牢舎せしめ、且つ、村中百姓過怠として百石に三貫文これを出し、苗木一万本植え返すべきの旨、申し付ける事。
 右裁断の趣、後証のため、絵図の裏にこれを記し、後藤舟戸境墨筋を引き、各印判を加へ、双方え下し置く条、永くこの旨を守るべきものなり。
 
表 元禄3年幕府評定所裁許の要点
論所争点裁許
古間木村の新畑古間木村が畑際に植えた松・杉9000本余(風除け用。実際は4300本余)を大生郷が伐採し,古新畑を掘り荒らす。大生郷は,支配する下草野銭場(利用料を払っている肥料採集地)を古間木村が盗み取ったと主張。60年前の検地時に定められた両村の野境は後藤舟戸。大生郷が論所にかかる新畑水帳(検地帳)を改竄・捏造したことが露顕。よって,論所を含む後藤舟戸より西の原野は古間木村分。以後,大生郷百姓の立入は禁止。
大生郷村の新畑大和田谷頭の茶の木畑,後藤舟戸の新畑は大生郷分と主張。茶の木畑は古畑で,古間木村持主支配とする。後藤舟戸の新畑は古間木村荷揚場であり,大生郷が新発したとしても荒らして原状復帰。
古間木村の藻草採取権古間木村が役銭(運上。利用料)を出さずに採取したため,大生郷が差し押さえ。役銭は魚鳥漁猟にかかるもので,役銭がなくとも漁猟権をもつ村が7か村ある。藻草採取には役銭はなく,大生郷の者による藻草採取の妨害は不届き。地先次第,採取可。
註 庄屋の牢舎,高100石につき3貫文の過料(罰金),苗木1万本植林が大生郷に下命される。


江戸時代後期県西地域の概観