4. 享保の飯沼新田開発

 俗に「飯沼三千町歩」と呼ばれる飯沼新田は,飯沼を干拓することによって成立した。それは,享保7年(1722)7月,尾崎村(八千代町)の名主秋葉左平太が,享保改革のもと江戸日本橋に掲げられた新田開発奨励の高札を見たことを発端とする。左平太は,飯沼廻りの岡田・結城・猿島3郡20か村を誘い,幕府にはたらきかけ,最終的には23か村の協力のもと開発を実現させた。飯沼新田の開発には,幕府勘定所新田方・普請方井沢為永の勘案した紀州流の農業土木技術が用いられた。沼水を利根川へ排水し,用悪水路が整備された。
 これら一連の開発にあたって,大生郷村名主坂野伊左衛門(則房)は,秋葉左平太,崎房村名主秋葉三太夫,馬場村名主秋葉源次郎とともに頭取を務めた。坂野家文書には,崎房村の秋葉孫兵衛(三太夫)が日本橋で高札を見て大生郷村・古間木村・鴻野山村の村役人へ左平太の願い出に関する現状を報告する享保7年8月2日の書状や,開発過程における願書・証文・取り決め類開発成就を祈願した天神宮(大生郷天満宮)への寄進状の写しが含まれている。
 工事は享保9年(1824)に開始され,鍬下年季が明けた享保12年(1727)~13年に新田検地が施行された。その結果,孫兵衛新田・左平太新田・栗山村新田・鴻野山村新田・馬場村新田・古間木村新田・伊左衛門新田・大生郷村新田・五郎兵衛新田・横曽根村新田・笹塚新田など総石高1万4383石余に及ぶ31か村の新田村が新たに村立てされた。また,新田村と飯沼廻りの村々は幕領となったが,坂野伊左衛門は大生郷村新田・伊左衛門新田2か村を請け負い,それらの名主も兼帯するようになった。
 開発時には,すべて賛同が得られたわけではない。費用を自前で調達する自普請であったことから,負担をめぐる混乱も生じた。大生郷村では,名主伊左衛門と村内の百姓が享保15年(1730)に仁連川へ橋をかける費用をめぐって争い,同村の庄左衛門,仁連町(古河市)の善右衛門,神田山村(坂東市)の武右衛門,幸田村(坂東市)の平八の仲裁によって問題を解決している
 飯沼新田開発に関する史料としては,秋葉左平太の男子である勘蔵(五郎兵衛)が編集し,延享3年(1746)に成立した『飯湖新発記』が著名であるが,坂野家にも『飯沼開発記』を外題とする巻3・附録巻3の写本2冊が伝存する。また,開発以降の用悪水路の管理について坂野家11代目の耕雨(久馬)がまとめた『要秘録』の稿本がある。
 
解説: 山澤 学(筑波大学人文社会系准教授) 2019.3
 
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