5. 二宮尊徳と近世後期の領主仕法

 幕領である大生郷村では,安永年間(1772~81)ごろは家数(戸数)が136軒あまりであったが,潰百姓・欠落人および他所からの奉公人が多くなり,近年は家数・人別がともに減り,隣村の者たちへ田畑を質入れしたり,困窮・難渋して稲作を放置したりして「亡村」,すなわち村がなくなるようなありさまであると,嘉永4年(1851)「規定書上帳」に記されている。18世紀中葉以降,村々の百姓は経営上,採算のあわない田畑を放棄し,稼ぎの良い産業のある町場へと流出していった。
 このような情況は江戸時代後期の北関東では広範に見受けられ,農村荒廃と称される。農村荒廃は,村々からの年貢によって存立する領主層にとっては由々しき事態であり,そのために村々の「復興」が課題となったのである。幕領を総監する幕府勘定所は,天保13年(1842)12月に下野国東郷陣屋(栃木県真岡市)の代官山内総左衛門の手附二宮金次郎,すなわち二宮尊徳に対し,大生郷村の調査と復興計画書の提出を命じた。尊徳は,翌14年(1843)正月に名主坂野久馬(耕雨)の屋敷を訪れ,「難村荒地」を見分し,仕法(復興計画)の作成にあたった。とはいえ,年貢減免,御救金・手当金の助成を求める村側と折り合わず,実現には至らなかった。
 その後,幕府代官勝田次郎が大生郷村および五郎兵衛新田・笹塚新田・横曽根古新田・報恩寺村・横曽根村・横曽根村新田・伊左衛門新田を立て直すために,実態の調査や勧農金の貸与などの仕法を実行する。その現地の実務者として,坂野久馬を勧農役(勧農掛,勧農世話役,勧農取締掛とも呼ばれる)に任命した。久馬およびその跡を継いだ伊左衛門(信寿,行斎)は,勝田の代官退任後も,廃藩置県までその役向きを続けることになった。
 代官に小林藤之助が就任すると,大生郷村は嘉永4年(1851)に再び二宮尊徳を頼り,その仕法の導入が実現した。とはいえ当時の大生郷村は,宗門人別帳への調印を拒む者がいるなど,全体で意思統一ができない情況にあり,仕法も安政3年(1856)10月の尊徳の死によって中断するに至った。しかし,代官荒井清兵衛,佐々井半十郎,北条平次郎らは勧農のための仕法を改めて実施し,久馬・伊左衛門も尽力し続けた。
 
解説: 山澤 学(筑波大学人文社会系准教授) 2019.3
 
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