日本列島において一般庶民の家が広範に成立したのは,17世紀中葉から18世紀初頭にかけてのことと言われている。常総市域においても,坂野家中興初代対馬が亡くなった翌承応3年(1654)に花島村で分家した新たな家に関する文書がある。このような一般庶民こそが江戸時代の文化の立役者である。
江戸時代には,多様な現世利益を祈る庶民信仰が出現した。新たな信仰を広めたのは,他国から来訪した宗教者であった。大生郷村字柏木には,寛永年間(1624~44)に木食但唱,奥州湯殿山(山形県)の行人らが広めた大日如来信仰に始まり,惣百姓の念仏籠所とされた大日堂があり,貞享年間(1684~88)に大生寺と威徳院がその管理権をめぐって争った。元禄6年(1693)には,他所の道心者(下層宗教者)常入が念仏家を借りた。
大生郷村から他国へ出かける者もいた。商取引のための旅も少なくなかったと予想されるが,次第に寺社参詣,湯治,さらには物見遊山の旅も行われるようになっていく。天保13年(1842)「游浴記」は,11代久馬(耕雨)による草津温泉(群馬県)への旅日記である。
学術知も広まった。坂野家には,家人が読み書きした書物・手習や,周辺だけでなく他国に関するさまざまな情報を交換した書状なども残る。弓術・剣術にも関心が持たれ,6代清蔵(美樹)は享保5年(1720)に東軍流剣術を伝授され,免状を受けている。安政5年(1858)にコレラが流行すると,水海道村や土浦(土浦市)・北条(つくば市)などの流行状況や,治療法の情報を得ている。元治2年(1865)正月には,屋敷での建物の新築・移築にあたり,江戸浅草花川戸町の治田典礼忠英に頼んで方位を見てもらい,書状と家相図を受け取る。坂野家には文久4年(1864)の家相図など,複数の家相図が残されている。また,坂野家は江戸時代後期に寺子屋を開いていたようで,7人の男児が坂野家に無断で門前にて花火をしたことを反省した詫び証文があり,子どもが押印の代わりに記した爪印の箇所に子どもの押し当てた爪の跡が見える。
江戸時代の大生郷村は,人や物,情報が激しく行き交う地域であった。このような社会・文化のあり方は江戸時代後期に,坂野家において数多くの書画を誕生させた。往来する多くの文人墨客が11代久馬(耕雨)・12代伊左衛門(行斎)の時代に坂野家へ立ち寄り、坂野家のみならず地域の有力百姓・町人らと交流し,薫り高い文芸をこの地域に開化させていった。それらの書画は,常総市デジタルミュージアムの「坂野家書画資料」に紹介されているので,参照されたい。
解説: 山澤 学(筑波大学人文社会系准教授) 2019.3
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