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日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム

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年代史・観戦記・その他資料 (昭和44年(1969)1月15日 第6回日本選手権試合)

30 トヨタ自工 44 - 16 慶大 1 杉浦  平(トヨタ学園) 16 前 3 1 坂水  滉(④慶応高,) 2 角屋 政雄(北見北斗高) 28 後 13 2 永野  進(②慶応高) 3 石井 京三(法大),3 折戸  明(④新潟高) 4 枝田 英雄(広島工) 3 T 0 4 楠目  皓(④慶応高) 5 安藤,(松井)誠治(④住吉高) 7 藤原  進(明大) 0 DG 0 7 高橋 忠久(③慶応高) C8 田中, 稔(立大) 8 谷川 義夫(④慶応高) 9 松田 章三(日体大) 6 T 3 9 渡辺  真(②慶応高
年代史・観戦記・その他資料 (昭和61年(1986)1月4日 昭和60年(1985)度 第22回大学選手権決勝)

 G:国立競技場 R:ファンワース KO 14:00 慶大 12 - 12 明大 1 橋本 達矢(④慶応高,) 9 前 9 1 太田  治(③秋田工) 2 五所 紳一(④慶応高) 3 後 3 2 中村 紀夫(④,城北高) C3 中野 忠幸(③慶応高) 3 篠原 俊則(④帯広工) 4 柴田 志通(②慶応高) 0 T,) 6 栗原 正信(④慶応志木高) 3 PG 1 6 土井 太志(②報徳学園) 7 上島  治(③慶応高,9 生田 久貴(④慶応高) 0 T 0 C9 南  隆雄(④大工大高) 10 清水 周英(④慶応高)
年代史・観戦記・その他資料 (昭和44年(1969)1月5日 昭和43年(1968)度 第5回大学選手権決勝)

14:30 早大 14 - 14 慶大 1 栗本 利見(②岐阜工) 9 前 3 1 坂水  滉(④慶応高,) 2 大東 和美(②報徳学園) 5 後 11 2 永野  進(②慶応高) 3 余  東奎(③西京商),3 折戸  明(④新潟高) 4 坂内 雅弘(④千葉東高) 2 T 1 4 楠目  皓(④慶応高) 5,) 8 宮城 寿太郎(②早大学院) 8 谷川 義夫(④慶応高) 9 平岡 惟史(②大分舞鶴高) 1 T,3 9 渡辺  真(②慶応高) C10 山本  巌(④新田高) 1 G 1 10 宮田 浩二(④慶応高
年代史・観戦記・その他資料 (昭和60年(1985)1月6日 昭和59年(1984)度 第21回大学選手権決勝)

14:00 同大 10 - 6 慶大 1 木村 敏隆(③広島工) 10 前 3 1 橋本 達矢(③慶応高,) 2 森川 進豪(②伏見工) 0 後 3 2 五所 紳一(③慶応高) 3 馬場  新(④長崎南高),3 中野 忠幸(②慶応高) 4 圓井  良(④同志社香里) 2 T 0 4 柴田 志通(①慶応高) 5,PG 0 6 田代  博(④慶応高) 7 浦野 健介(③膳所高) 0 DG 0 7 玉塚 元一(④慶応高,生田 久貴(③慶応高) 10 松尾 勝博(③延岡東高) 0 G 0 10 浅田 武男(④慶応高) 11
年代史・観戦記・その他資料 (昭和61年(1986)1月15日 第23回日本選手権試合)

) 3 前 0 1 八角 浩司(保善高) 2 五所 紳一(④慶応高) 15 後 13 C2 畠山 一寿,(明大) C3 中野 忠幸(③慶応高) 3 池田 洋七郎(中京大) 4 柴田 志通(②慶応高) 0 T,0 4 重村 政実(中京大) 5 山越 克雄(③慶応高) 0 G 0 5 塚本 浩二(帝京大) 6,栗原 正信(④慶応志木高) 1 PG 0 6 竹村 光弘(帝京大) 7 上島  治(③慶応高) 0 DG,(④慶応高) 2 T 1 9 上杉 良広(西陵商) 10 清水 周英(④慶応高) 2 G 1 10 朽木
年代史・観戦記・その他資料 (昭和29年(1954)度)

【その他】 大学大会は関西大が初優勝、高校は慶応高が優勝 第5回大学大会は関西大が32−0で松山商大を,第34回高校大会では慶応高が秋田工を6−5で破り22年ぶり2回目の優勝を果たした。,19−0で東京都(全東京)を破って3連覇、少年の部は2グループに分けて行われ、Aグループでは神奈川県(慶応高,慶応高は国体と全国大会を制して2冠となり話題を集めた。
年代史・観戦記・その他資料 (昭和53年(1978)1月4日 昭和52年(1977)度 第14回大学選手権決勝)

0 前 3 1 山城 泰介(③筑紫丘高) 2 野口  哲(④柏高) 7 後 3 2 筒井 京弥(④慶応高,G 0 5 黒沢 利彦(③高崎高) 6 高平 信也(④長崎南高) 0 PG 1 6 荒井 哲也(③慶応志木高,0 10 小西 雅之(③住吉高) 11 上林  整(③函館工) 1 PG 1 11 今岡 秀輔(③慶応高,) 12 竹沢 恒幸(④春日井高) 0 DG 0 12 松木 弘志(④慶応志木高) 13 金谷 福身(,(③青山高) 15 橋爪 利明(①大工大高) 15 永岡  章(③仙台三高) 交代【慶】是永龍之(④慶応高
年代史・観戦記・その他資料 (平成12年(2000)1月15日 平成11年(1999)度 第36回大学選手権決勝)

佐賀工) 2 岡本 知樹(③桐蔭学園) 15 後 0 2 蔵  憲治(③鹿児島実) 3 安  龍煥(③慶応志木高,松山商) 6 三森  卓(④茗渓学園) 4 PG 0 6 古島 慶人(④東山高) 7 野澤 武史(②慶応高,) 14 浦田 修平(③長崎北) 8 反 12 14 四宮 洋平(③桐蔭学園) 15 加藤 正臣(②慶応高,【慶】佐座正二郎(③東福岡高)①、中村秦登(③大分雄城台)③、川尻圭介(③修猷館高)⑫、高木洋彦(④慶応高
年代史・観戦記・その他資料 (平成20年(2008)1月12日 平成19年(2007)度 第44回大学選手権決勝)

14:00 早大 26 - 6 慶大 1 瀧澤  直(③千種高) 12 前 3 1 川村  慎(②慶応高,2 T 0 4 岡田  龍(④前橋高) 5 橋本  樹(③久我山高) 1 G 0 5 村田  毅(①慶応志木高,) 6 有田 幸平(④啓光学園) 0 PG 1 6 山崎 真二朗(④慶応高) 7 覺来  弦(④桐蔭学園,正智深谷高)⑤ 【慶】小澤直輝(①桐蔭学園)⑤、千葉和哉(④北野高)⑦、花崎亮(③清真学園)⑨、浜本将人(②慶応高
年代史・観戦記・その他資料 (全国高校大会史(旧中等学校大会を含む))

秋田工時代の間隙を縫って保善高(2回)、天王寺高、福岡高、慶応高が優勝した。,京城師範 3回 13 福岡高校 3回 (福岡中学の2回を含む、うち1回は関西・九州分離開催) 15 慶応高校,2回 (慶応普通部の1回を含む) 15 台北一中 2回 (引き分け優勝1回を含む) 15 撫順中学,同志社中 41−0 ●早稲田実業 南甲子園運動場 合田 夷 第12回 昭和5年(1930)1.7 ○慶応普通部,1.7 ○福岡高 5−0 ●保善高 西宮球技場 杉本 彰 第34回 昭和30年(1955)1.7 ○慶応高
年代史・観戦記・その他資料 (昭和31年(1956)度)

少年Aは秋田県(秋田工)が神奈川県(慶応高)を23−5で破り、少年Bでは東京都(保善高)が岩手県(黒沢尻工
年代史・観戦記・その他資料 (昭和39年(1964)度)

全秋田)を下して初優勝、少年Aは東京都(保善高)が14−0で北海道(北見北斗高)を、Bでは神奈川県(慶応高
年代史・観戦記・その他資料 (昭和34年(1959)度)

東京都(保善高)が9−3で岩手県(盛岡工)に勝って4連覇、Bは大阪府(興国商)が18−3で神奈川県(慶応高
年代史・観戦記・その他資料 (昭和38年(1963)度)

少年Aでは東京都(保善高)が14−9で秋田県(秋田工)に勝ち、Bでは神奈川県(慶応高)が12−3で山口県
年代史・観戦記・その他資料 (国民体育大会ラグビー史)

高崎高) (高校A、Bグループに) 第9回 昭和29年(1954) 北海道 札幌市 A○神奈川県(慶応高,水戸農) 第11回 昭和31年(1956) 兵庫県 神戸市 A○秋田県(秋田工) 23−5 ●神奈川県(慶応高,○東京都(保善高) 9−3 ●岩手県(盛岡工) B○大阪府(興国商) 18−3 ●神奈川県(慶応高,1963) 山口県 山口市 A○東京都(保善高) 14−9 ●秋田県(秋田工) B○神奈川県(慶応高,1964) 新潟県 新潟市 A○東京都(保善高) 14−0 ●北海道(北見北斗高) B○神奈川県(慶応高
日本ラグビーフットボール史 (《戦前の関東大学は慶應の復活とともに終焉へ》)

《戦前の関東大学は慶應の復活とともに終焉へ》 「始め有るものは必ず終りあり」ということわざがあるように,立役者はもちろんラグビー創始校の慶應蹴球部─。,終止符を打った…」とまで慶應百年史に書かせた明治強力FWの敗退ではあったが、慶應には勝者としての確たる,この年の春、慶應黒黄会は監督に脇肇の就任を要請した。,翌1943(昭和18)年度は10月9日に慶應─立教戦が1試合行われただけ。 / 《戦前の関東大学は慶應の復活とともに終焉へ》
年代史・観戦記・その他資料 (コラム『慶應義塾創部以前の、国内におけるラグビーフットボール』)

『時事新報』龍渓書舎1901年12月8日)  慶應義塾にはクラークと銀之助も加わったが5対41(『慶應,どうしてもここで慶應義塾の初勝利までエピソードを知らせねばなるまい。,時計通りに試合が終われば慶應義塾の初勝利はこの日だった。  ,1908年秋に三田綱町グランドで再戦し12対0のスコアで慶應義塾は初勝利した。,1908年11月15日付『時事新報』には慶應義塾の勝利の様子が書かれてある。 / コラム『慶應義塾創部以前の、国内におけるラグビーフットボール』
年代史・観戦記・その他資料 (明治40年(1907)度)

明治40年(1907)度 English Español 9シーズン目 慶応義塾創立50,周年記念塾内大会  4月23日に慶応義塾創立50周年記念として、第6回塾内大会でラグビーが行われ、幼年組,慶応義塾蹴球部歌「白鎧鎧(はくがいがい)……」が誕生 『慶応60年史』P146にOBの安藤復蔵がこう,太田中学は慶応の塾内大会に招待され、普通部と試合するなど、慶応以外に生まれた初めてのチームとして期待されたが,41年2月3日、慶応が第1回の神戸遠征を行ったが0−8で惜敗した。
年代史・観戦記・その他資料 (大正2年(1913)度)

大正2年(1913)度 English Español 15シーズン目 慶応義塾4回目,、6試合の関西遠征を挙行  慶応は、正月休みを利用して同大、KRACなどと、9日間で6試合という強行日程,選手22名(『慶応60年史』P25)と記されている。,○慶応義塾 29−0 ●京都クラブ G:京都 R:不明 T3(1914).1.7 ○慶応義塾 46−,0 ●京都一中 G:京都 R:井上 T3(1914).1.8 ○慶応義塾 8−0 ●同大 G:同大 R
年代史・観戦記・その他資料 (大正6年(1917)度)

大正6年(1917)度 English Español 19シーズン目 慶応義塾、関西,へ遠征し同大、三高、KRACと激突  前年の三高に続き、同大が第5回定期戦に3−3と初めて慶応と引き,当時のチームの目標は打倒慶応である。引き分けといえど大殊勲。,三高も0−3と慶応を追いつめ、打倒慶応は目前となった。,慶応も奮起して10回目の対戦で初めてKRACに11−0で快勝して遠征に花を添えた。
年代史・観戦記・その他資料 (明治43年(1910)度)

堀江卯吉であったこと、同級生の中村愛助、伊藤泰、加藤麟平、那須省二郎、高橋卓二らが、堀江の親戚である慶応,の真島進を通じて慶応からボールの寄贈を受けたこと、明治43年9月23日に寮生を中心に呼びかけて30人ほどで,慶応のさらなる積極的支援が実り、翌44年に慶応対三高の、初の日本人同士の試合へと発展していく。,慶応義塾2年ぶりにYCACを破る  11月26日に行われたYCACとの試合に16−0で慶応義塾が快勝,M43(1910).11.26 ○慶応義塾 16−0 ●YCAC G:横浜公園 R:不明 第15回対戦
年代史・観戦記・その他資料 (明治41年(1908)度)

明治41年(1908)度 English Español 10シーズン目 慶応義塾、YCAC,に初勝利  慶応は11回目の対戦1)で、初めてYCACとの試合に快勝した。,いかに慶応の戦法が成功したかがわかる。,慶応方の技術が長足に進歩を遂げた上に、こういう著書によって科学的技術を身につけたという自信が大きく影響,M41(1908).12.5 ●慶応義塾 0−25 ○YCAC G:横浜公園 R:不明 第12回対戦
年代史・観戦記・その他資料 (明治36年(1903)度)

明治36年(1903)度 English Español 5シーズン目 慶応蹴球部、体育会,『慶応100年史』P74では「1903年12月5日、山崎不二雄キャプテン率いる慶応ラグビーが、正式に蹴球部,(1904).2.10 ●慶応義塾 ?,三田綱町に新しい運動場の用地を購入した(『慶応60年史』試合記録P1)。,第1回塾内大会  慶応義塾で初めての塾内ラグビー大会が行われた。
年代史・観戦記・その他資料 (明治44年(1911)度)

明治44年(1911)度 English Español 13シーズン目 慶応対三高、,すべきこの試合は、4月8日10時30分、三田綱町グラウンドで、ウィード主審のホイッスルでキックオフ、慶応義塾,この試合に備えて三高は4月6日に三田綱町に出向き慶応二軍と対戦し3−3で引き分けている。,慶応対同志社、第1回定期戦は慶応が圧勝  現在も行われている定期戦として日本最古の慶応対同志社戦は、,明治45年1月8日に三高グラウンドで行われ、24対3で慶応が圧勝した。
年代史・観戦記・その他資料 (大正5年(1916)度)

11 ○YCAC G:横浜根岸 R:不明 第1回定期戦 T6(1917).1.7 △三高 6−6 △慶応義塾,G:三田綱町 R:高地万寿吉 第4回定期戦 慶応義塾、YCACに4度目の勝利 大正5年12月18日,、慶応眞島、矢野のパッスにて松井トライし慶応勝つ」と記されている。,『慶応60年史』にも『慶応100年史』にも11月25日のYCAC8−0慶応二軍の記載があるのに、この試合,●慶応義塾 ?−?
年代史・観戦記・その他資料 (大正4年(1915)度)

大正4年(1915)度 English Español 17シーズン目 慶応5回目の関西遠征, 慶応は1908年(明治41年)2月にKRACとの第1回定期戦以来、5回目となる関西遠征を実施した,T5(1916).1.8 ●慶応義塾 5−15 ○KRAC G:神戸東遊園地 R:レセリストステン 第,8回定期戦 T5(1916).1.10 ○慶応義塾 8−5 ●同大 G:同大 R:堀井 第4回定期戦,まだ関東には慶応義塾しかラグビー部[慶応では蹴球部と称した]がなかった時代である。
日本ラグビーフットボール史 (《日本チーム同士が初めて対戦―新時代の幕が開けた》)

ホスト役の慶應義塾が組んだプログラムはまず練習マッチで第2チームが三高の相手をする。,第1選手でチームを組んだ慶應蹴球部はやはり強かった。,慶應義塾が前、後半合わせて10トライ、1ゴール、1PG、1DGと得点方法のすべてを披露。,第1に11年つづいた慶應ラグビー孤立の時代にピリオドを打ったこと。,慶應義塾の戦前の記録を調べてみると、同じ帝大でも東京の対慶應戦全敗に対し、三高卒業生が主力を形成していた
日本ラグビーフットボール史 (《舞台は変わって盟主の座は早と明》)

《舞台は変わって盟主の座は早と明》 慶應が日本のチームに初めて敗れたのが1927(昭和2)年の早慶戦,せっかく打倒慶應の一番乗りをはたしながら、早稲田時代への最初の好機を逸したばかりか、慶應に一時的とはいえ,慶應ラグビーが明治、大正時代を代表するなら、早・明ラグビーの対立は戦前、戦後の昭和時代を代表する偉大な, 1929年  立教     京大  1930年  慶應     慶應  1931年  明治     ,     慶應 ※5大学リーグ結成の前年のため早稲田が優勝校と認定される。
年代史・観戦記・その他資料 (明治42年(1909)度)

明治42年(1909)度 English Español 11シーズン目 慶応義塾蹴球部,『ラグビー式フットボール』出版  慶応は部員が分担し、ディーブ・ギャラハーの「Complete Rugby,M43(1910).2.18 ●慶応義塾 0−21 ○YCAC G:横浜公園 R:マクナートン 第14,回対戦 M42(1909).12.25 ●慶応義塾 0−6 ○KRAC G:神戸東遊園地 R:ジェフリー
年代史・観戦記・その他資料 (明治32年(1899)度)

#241;ol 明治32年4月~33年3月(以下同じ) 1シーズン目 日本ラグビー発祥の年  慶応義塾,『慶応60年史』P189-208には、明治42年(1909)11月11日博文館より発行された、慶応義塾蹴球部著作,そこには「クラークと田中銀之助が慶応にラグビーを伝えたこと」に加え、「慶応義塾の最初の練習場が仙台ケ原
日本ラグビーフットボール史 (《創始校倒れて新旧が一線に…》)

次の年度には捲土重来の慶應が京大の挑戦者として浮上したがこれも失敗。そして新しい星の登場となった。,5大学リーグの結成とともに初代(1928年度)、第3代(1930年度)と慶應が王座についた。,慶應百年史には「強い慶應義塾復活の感すらあった。,慶應義塾からOB(3人)、学生(5人)合わせて大量8人がメンバーに選ばれたのだ。,この年度の慶應の強さがこのあたりにもうかがえるだろう」と記しているが、皮肉にもこの年度を最後に慶應の時代
年代史・観戦記・その他資料 (明治34年(1901)度)

慶応義塾がYCACと12月7日に横浜公園で試合を行いYCACが41−5で勝利を収めた。,『旧機関誌』第2巻8号に後日クラークが「このプレヤー(慶応の塩田賢次郎)は、ついに捕まるか逃げおおせるかの,Gazette』紙にはトライ塩田の記述はなく、「クラークが見事なゴールを決めた」とだけ記されている(『慶応,M34(1901).12.7 ●慶応義塾 5−41 ○YCAC G:横浜公園 R:バスゲート 第1回対戦
年代史・観戦記・その他資料 (大正12年(1923)度)

慶応、京大、同大、早大、関西大、大阪高商、大阪高校の7校が出場し、慶応が優勝を飾った。,T12(1923).5.22 ○慶應義塾 26−0 ●大阪高商 G:大阪築港 R:井上 1回戦 T12,27−0 ●同大 G:大阪築港 R:竹上四郎 準決勝 T12(1923).5.27 ○慶應義塾 11,その他の主要試合 〈関東〉 T12(1923).11.23 ○慶応義塾 20−3 ●早大 G:早大戸塚,R:香山蕃 第2回定期戦 T12(1923).12.18 ○慶応義塾 60−0 ●明大 G:三田綱町
日本ラグビーフットボール史 (《部活動の発進を阻む早慶交流の断絶》)

《部活動の発進を阻む早慶交流の断絶》 東都でなぜ慶應ラグビーの孤立がつづいたのだろうか。,慶應義塾体育会創立百年記念誌によると「1906(明治39)年11月11日の早慶野球試合決勝戦は両校の応援白熱,慶應OBの橋本寿三郎が母校の六十年史でこの問題に触れている。    ,こうした新しい仲間の窮状に手を差し伸べたのが慶應蹴球部である。,しかし「何か方法があるはず」と思考を重ねたすえに慶應サイドが編み出した妙案。
年代史・観戦記・その他資料 (大正8年(1919)度)

大正8年(1919)度 English Español 21シーズン目 慶応義塾の関西遠征, 慶応は3戦全勝で遠征を飾っているが、三高に3−0、同大に5−3と薄氷を踏む勝利であった。,しかしまだ慶応の国内チームとの無敗記録は続く。,).1.8 ○慶応義塾 5−3 ●同大 G:同大 R:不明 第8回定期戦 T9(1920).1.10,○慶応義塾 19−3 ●KRAC G:神戸東遊園地 R:スペンス 第11回定期戦 第3回日本蹴球大会
日本ラグビーフットボール史 (《三高ラグビーも寄宿舎から》)

慶應蹴球部員真島進のラグビーへの誘いにのめり込んでいった三高の堀江卯吉とその仲間たち。,これは、慶應のチャンスを逃がさぬ積極的な普及活動の熱意と、当時の三高生中村愛助(明治44年卒)らが学生,明治44年卒)と慶應蹴球部選手真島進との間に発生した姻戚関係(堀江卯吉が真島家の婿養子となる)である。,真島進が楕円球を京都市下賀茂の堀江の下宿に持参した背後には、時の慶應蹴球部主将田辺九万三の『官立学校三高,京都ラグビー発祥の碑 慶應ラグビー100周記念事業を支えた黒黄会員名の記録板
日本ラグビーフットボール史 (《古都京都にラグビーの息吹が》)

学習院は田中銀之助がケンブリッジ大学留学前の母校であり、一高はクラークが慶應在職中に英語講師を務めた高等学校,期せずして慶應義塾にラグビーを紹介し、育てた恩師にも縁のある学校ではあったが、太田中学同様なぜか両校とも,ここでひとつはっきりしていることは、この前史の冒頭で述べたように慶應義塾でラグビーが根付き、育っていった,慶應義塾にとって東都での普及活動は不運の一語に尽きるが、遠く離れた古都京都に蹴球部と同じような土壌をもった,両者の間には違いこそあったが、慶應義塾予科と三高は同年代。
年代史・観戦記・その他資料 (明治45~大正1年(1912)度)

#241;ol 14シーズン目 明治天皇崩御、明治から大正へ 「7月30日に明治天皇が崩御され、慶応義塾,野球部、弓術部などが活動を休止したが、ラグビー部は11月3日の塾内大会から例年通り実施している」(『慶応,0−15 ○YCAC G:横浜公園 R:ウィリー 第17回対戦 T1(1912).11.30 ○慶応義塾,8−0 ●YCAC G:横浜根岸 R:ウィリー 第18回対戦 T2(1913).2.8 △慶応義塾,3−3 △YCAC G:三田綱町 R:ウィード 第19回対戦 T2(1913).2.15 ●慶応義塾
年代史・観戦記・その他資料 (大正7年(1918)度)

目 早稲田大学ラグビー部創部 早大、三高と初試合、YCAC戦キャンセルの非礼を詫びる  早大は慶応,慶応、京大、同大、三高、京都一商、同志社中の6チームが出場したが、慶応、京大が準決勝で棄権したため決勝戦,その他の主要試合 〈関東〉 T8(1919).1.6 ○慶応義塾 9−0 ●三高 G:三田綱町 R:,0−5 ○KRAC G:神戸東遊園地 R:スペンス 第15回定期戦 T8(1919).1.18 ○慶応義塾
年代史・観戦記・その他資料 (明治37年(1904)度)

YCACは2ndで対戦したが慶応義塾は0−17で敗れた。,M37(1904).12.8 ●慶応義塾 0−17 ○YCAC 2軍 G:横浜公園 R:ムーン 第4回対戦,第2回塾内大会  11月19日午後1時、三田綱町グラウンドで慶応義塾第2回フットボール大会が行われた
年代史・観戦記・その他資料 (明治38年(1905)度)

M38(1905).12.8 ●慶応義塾 0−14 ○YCAC 2軍 G:横浜公園 R:ムーン 第5回対戦,M39(1906).2.17 ●慶応義塾 0−9 ○YCAC G:日比谷公園 R:田中銀之助 第6回対戦,塾内大会秋・春2回開催  三田綱町では慶応義塾の塾内大会が行われているが、このシーズンは秋[天長節
日本ラグビーフットボール史 (《京大エイトFWの全国制覇》)

早稲田との直接対決を制したとはいえ、東大は慶應、明治に敗れて2敗を記録しており、慶應も明治戦の引き分けがひびいて,「慶應を破るには慶應のやり方を真似していては駄目であるから、新しい方法でやるべきだということに決まりFW,一方の慶應はこれで2敗。,打倒慶應を実現したかと思えば、暮の東大戦に大敗する。,こうして巌中心に研究熱は大いに高まったが、研究のための研究ではなく、敵は慶應、すべては打倒慶應のための
年代史・観戦記・その他資料 (大正3年(1914)度)

その他の主要試合 〈関東〉 T3(1914).11.28 ●慶応義塾 6−19 ○YCAC G:横浜根岸,R:チッケン 第21回対戦 T4(1915).1.16 ○慶応義塾 18−6 ●YCAC G:横浜根岸,R:チッケン 第22回対戦 T4(1915) ●慶応義塾 ?,.1.30 ●同大 0−3 ○KRAC G:神戸東遊園地 R:スペンス 第7回定期戦2) 1) 『慶応
日本ラグビーフットボール史 (《早稲田ラグビー誕生の意義》)

慶應蹴球部のケースと同じように最初は倶楽部チームとして発進。,孤独の活動を余儀なくされてきた慶應蹴球部にとっては長い19年ではあったが、東都で早慶両校がそろったことの,京都を西の定点とするなら、日本ラグビー発祥の東京は東の定点となるはずだが、その東京に慶應蹴球部の相手となる,早稲田といえば大学創立いらい、何かにつけて慶應義塾とライバル視されてきた大学である。
日本ラグビーフットボール史 (《揺れる大学ラグビー界》)

、早稲田との対戦は自由▼明治は慶應、早稲田との対戦を無料試合とする─の3点を関東協会に通告。,②慶・日全勝が戦わず(1955年度)  慶應、日本ともにこのシーズンは全勝を記録。,日本から対戦申し入れが慶應に行われたが、慶應は期末試験のため断る。  ,前年度の成績に準じて、Aブロックは慶應、早稲田、明治、日本、中央、立教の6大学。,⑤慶應・早稲田がA、Bブロック交替(1961年度)  慶應がBブロックで全勝、代わって早稲田がBブロック
日本ラグビーフットボール史 (《すべては同好クラブから》)

それは「慶應義塾体育会蹴球部」と呼ばれるが、では1899年秋の発祥時からこの名称をもっていたかといえばそうではない,ここに出てくる「運動部」とは慶應ラグビーの現名称にも謳われている「体育会」のこと。,クラークの誘いに触発された猪熊隆三らのラグビー活動が「蹴球部」と名乗り、慶應義塾体育会に晴れて加盟できたのは,4年間の同好クラブ活動という草創期の背景、そして松岡正男の慶應義塾入学から卒業の年度をつぶさに検討すれば,慶應義塾でも百年史で蹴球部初代主将を山崎不二雄としており、今回編纂の日本協会八十年史でも正史の安藤説を
日本ラグビーフットボール史 (《寄宿舎制度の恩恵》)

《寄宿舎制度の恩恵》 慶應義塾でなぜラグビーが定着していったのだろう。,日本協会が1964(昭和39)年11月20日に出版した日本ラグビー史は、その条件として第1編Ⅱ慶應孤立時代,の項で①学校だけが外国からの集団競技を受け入れる唯一の施設 ②慶應が持ち合わせた豊かな経費支弁の余裕─,慶應義塾の寄宿舎制度だが、その歴史は古い。,慶應義塾と改名してからもこの伝統は守り続けられ、ラグビー草創期の1900(明治33)年9月には三田山上
日本ラグビーフットボール史 (《2人のキャンタブとその役割》)

は、2人のキャンタブ─すなわちスコットランド系英国人E.B.クラーク、留学生だった田中銀之助によって慶應義塾,今様に解釈すれば、慶應義塾の語学講師だったクラークは「ラグビー部長」であり、慶應義塾のOBではなかったが,慶應義塾が初めてYC&AC(横浜外国人クラブ)と対外試合を行った1901(明治34)年12月7,ともすれば物心両面で慶應義塾蹴球部(以後蹴球部)の若者たちをサポートした田中銀之助と比較されがちのクラーク,コラム『慶應義塾創部以前の、国内におけるラグビーフットボール』
年代史・観戦記・その他資料 (大正11年(1922)度)

慶応の大市信吉と早稲田の中村元一が十数回会合を重ね、関係者の努力が実って11月23日に三田綱町グラウンド,試合は14−0で慶応の勝利に帰したが、早慶スポーツ交流再会のきっかけとなったことにとどまらず、大学ラグビー,慶応義塾が蒔いた種が、京都で育ち再び東京へ戻って花を咲かせたという好例であろう。,私の推測だが、それ以前は慶應のクラーク先生から教えられた『ラグビー式フットボール』(明治42年、慶応義塾蹴球部,関東OB 3−0 ●関西OB G:三田綱町 R:大市信吉 第5回 T11(1922).11.23 ○慶応義塾
年代史・観戦記・その他資料 (明治39年(1906)度)

『慶応60年史』P176に、この試合7番バックローセンター[現在のNo8]を務めた田邊九萬三の記述を要約,M39(1906).11.24 ●慶応義塾 4−6 ○YCAC G:三田綱町 R:ミッチェル 第7回対戦,M40(1907).1.26 ●慶応義塾 0−9 ○YCAC G:横浜公園 R:バッドソン 第8回対戦
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