• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 434件
辞書ファセット
/ 9ページ
年代史・観戦記・その他資料 (決勝記録一覧)

京都大学 11−5 ●慶応大学 神宮競技場 目良篤 昭和3年(1928)1.7 ○京都大学 14−11 ●早稲田大学,1.7 ○明治大学 54−11 ●京都大学 神宮競技場 目良篤 第6回 昭和8年(1933)1.3 ○早稲田大学,27−3 ●同志社大学 花園ラグビー場 巌栄一 第7回 昭和9年(1934)1.3 △早稲田大学 8,9−8 ●同志社大学 花園ラグビー場 阿部吉蔵 第11回 昭和12年(1937)11.3 ○早稲田大学,8−6 ●同志社大学 花園ラグビー場 杉本彰 第25回 昭和29年(1954)1.3 ○早稲田大学
年代史・観戦記・その他資料 (決勝記録一覧)

レフリー 【大学選手権大会決勝】 第1回 昭和40年(1965)1.10 ○法政大学 14−6 ●早稲田大学,秩父宮ラグビー場 江田昌佑 第2回 昭和41年(1966)1.5 ○早稲田大学 16−0 ●法政大学,秩父宮ラグビー場 西山常夫 第3回 昭和42年(1967)1.7 ○早稲田大学 18−3 ●法政大学,秩父宮ラグビー場 江田昌佑 第4回 昭和43年(1968)1.7 ○法政大学 11−8 ●早稲田大学,秩父宮ラグビー場 西山常夫 第5回 昭和44年(1969)1.5 △慶応大学 14−14 △早稲田大学
日本ラグビーフットボール史 (《早稲田ラグビー誕生の意義》)

《早稲田ラグビー誕生の意義》 早稲田大学にラグビー蹴球部が誕生した。,その日を早稲田ラグビー六十年史は1918(大正7)年11月7日とし、創部の日と定めている。,そのような「ゆがんだ構造」が形成されつつあったところでの早稲田ラグビーの登場である。,早稲田といえば大学創立いらい、何かにつけて慶應義塾とライバル視されてきた大学である。,早稲田ラグビーの成立がそれほど大きな出来事だったことは、その後の日本ラグビー界の発展ぶりが如実に物語っている / 《早稲田ラグビー誕生の意義》
日本ラグビーフットボール史 (《早稲田が豪州へ遠征》)

《早稲田が豪州へ遠征》 早稲田大学ラグビー蹴球部が1927(昭和2)年7月13日、神戸港出帆の日本郵船安芸丸,早稲田ラグビー六十年史は、5戦して勝利なしの5敗だったことを記したうえで「ある豪州の新聞には、身体に著,早稲田ラグビーは31大会ぶりに大学選手権2連覇をはたした。国立競技場をおおう冷気と感動の輪。,早稲田が最初の海外遠征地に選んだ豪州ラグビーの歴史は古い。,【早稲田大学ラグビー蹴球部 オーストラリア遠征メンバー】  団長:喜多壮一郎(教授)  監督:木村文一 / 《早稲田が豪州へ遠征》
日本ラグビーフットボール史 (《草創から初期の早稲田を支えた京都人脈》)

《草創から初期の早稲田を支えた京都人脈》 早稲田ラグビーの歴史を語るとき忘れてならないのが京都人脈の,せざることを遺憾として、幼年より親しめる楕円球を初めて戸塚球場に持ち来り、同志と共に、蹴球せるがそもそも早大,のラグビー選手だった国光素介、弟が同志社の有名な陸上選手だった大久保謙治ら京都出身者や慶應普通部から早稲田大学,戦後の早稲田はいざしらず、少なくとも発祥から戦前の早稲田ラグビー黄金時代を語るとき、京都出身者なくして,これが早稲田ラグビー戦前の部の歴史である。 / 《草創から初期の早稲田を支えた京都人脈》
年代史・観戦記・その他資料 (令和5年(2023)1月8日 令和4年(2022)度 第59回大学選手権決勝)

(174/85/19) 23 戒田慶都(178/86/21) ※背番号の白抜きはキャプテン 早稲田大学,14.槇瑛人 T 7 - 5 11分 早稲田大学 12.吉村紘 G 7 - 7,17分 早稲田大学 11.松下怜央 T 7 - 12 18分 早稲田大学 12.吉村紘,64 - 15 36分 帝京大学 10.高本幹也 G 66 - 15 39分 早稲田大学,14.槇瑛人 T 66 - 20 39分 早稲田大学 22.野中健吾 Gx 66
年代史・観戦記・その他資料 (日本選手権大会の歩み)

第3回大会は横井久監督、矢部達三主将の早稲田大学が、八幡製鉄を12−9で破り初優勝した。,第13回大会までは、早稲田大学が3回、同志社大学、日本体育大学、明治大学が各1回優勝し、近鉄3回、リコー,分け優勝1を含む) 5 パナソニックワイルドナイツ 6回 (三洋電機時代の優勝回数3回を含む) 6 早稲田大学,花園ラグビー場 野々村博 第12回 昭和50年(1975)1.15 ○近畿日本鉄道 33−13 ●早稲田大学,自動車 26−6 ●大東文化大学 国立競技場 真下 昇 第25回 昭和63年(1988)1.15 ○早稲田大学
年代史・観戦記・その他資料 (令和7年(2025)1月13日 令和6年(2024)度 第61回大学選手権決勝)

マッチコミッショナー 陶久昌明 sign TMO 関谷惇大 タイムキーパー 丸山哲平 早稲田大学,種類 時間 背番号 内容 得点経過 前半Kick off : 帝京大学 /後半Kick off : 早稲田大学,T 0 - 12 13分 帝京大学 12.大町佳生 G 0 - 14 15分 早稲田大学,15.矢崎由高 T 5 - 14 17分 早稲田大学 12.野中健吾 G 7 -,14 24分 早稲田大学 8.鈴木風詩 T 12 - 14 26分 早稲田大学 12
年代史・観戦記・その他資料 (大学東西王座決定戦の歩み)

昭和2年(1927)11月23日の第6回早慶戦で慶応大学は早稲田大学に6−8で敗れ、創部以来初めて日本人,だがその早大も東京大学に6−19で敗れ、関東は全勝校がなく優勝は預かりになった。,京大は関東の早大、慶大を破って初の全国制覇を成し遂げた。  ,私はこの時代に早大の一部員だったが、スケジュールをすっきりさせてほしいと強く願っていたのを思い出す。,大学東西王座決定戦(35回) 優勝チームおよび優勝回数 1 早稲田大学 11回 2 明治大学 9回 3
年代史・観戦記・その他資料 (大学選手権の歩み)

連勝を続ける松元秀雄監督、宿沢広朗主将の早大を、長い不振から立ち直った北島忠治監督、高田司主将の明大が,の関東学大が、常勝明大の3連覇を阻んで初優勝を遂げた試合、第39回大会、清宮克幸監督、山下大悟主将の早大,大学選手権大会(60回) 優勝チームおよび優勝回数 1 早稲田大学 16回 (引き分け優勝1を含む)
年代史・観戦記・その他資料 (九州朝日招待試合史)

日本学生代表 14 10 0 4 71.4 明治大学 13 6 0 7 46.2 (全明大の1勝を含む) 早稲田大学,○明治大 36−14 ●九州代表 平和台競技場 平山新一 第3回 昭和28年(1953)1.18 ○早稲田大,46−0 ●九州代表 平和台競技場 平山新一 第4回 昭和29年(1954)1.15 ○早稲田大 16,●日本大 10−29 ○九州代表 平和台競技場 松岡正也 第7回 昭和32年(1957)1.15 ○早稲田大,●慶応大 5−23 ○九州代表 平和台競技場 堀 博俊 第9回 昭和34年(1959)1.15 ○早稲田大
年代史・観戦記・その他資料 (大正7年(1918)度)

大正7年(1918)度 English Español 20シーズン目 早稲田大学ラグビー,部創部 早大、三高と初試合、YCAC戦キャンセルの非礼を詫びる  早大は慶応との定期戦に上京する三高,に対戦をお願いし、大正8年1月7日に早大戸塚グラウンドで0−15と完敗した。,「早大ラグビー部の記念すべき第1戦に、早大はえび茶と白の横縞のジャージィ(一着2円50銭)を着用した。,G:早大戸塚 R:塩川潤一 第1回定期戦 〈関西〉 T7(1918).11.30 ○同大 6−3 ●
年代史・観戦記・その他資料 (大正9年(1920)度)

その他の主要試合 〈関東〉 T9(1920).12.5 ●早大 3−43 ○YCAC G:横浜根岸,●三高 G:三田綱町 R:増田鉱太郎 第8回定期戦 T10(1921).1.6 ○三高 17−0 ●早大,野球の早慶戦で応援合戦が過熱し一触即発の不穏な雲行きとなり1勝1敗で迎えた3回戦が急遽中止された」(『早稲田,スポーツの一世紀』P16、早稲田大学、1993) 2) 三高蹴球部史P226に11.27、関西協会史
年代史・観戦記・その他資料 (昭和8年(1933)度)

が2年連続全国制覇 早大はゆさぶりだけに満足せず、スクラム[早大は7人FW]にボールを投入したSHが、,/関東は早大、関西は同大が優勝 早大は7大学[商大(現一橋大)と法大が加入]となった第6回関東大学対抗戦,【その他】 早大戸塚球場に夜間照明完成 上田輝雄早大工学部教授の指導で、戸塚球場に1700燭光の夜間照明,S8(1933).9.9 ○全早稲田大学 24−13 ●関東代表 G:早大戸塚 R:本領信治郎 KO19,:00 中学は秋田工が初優勝、高専は2年連続早大高等学院 秋田工が第16回全国中等学校大会で京城師範
年代史・観戦記・その他資料 (昭和25年(1950)度)

【大学】 早大2年ぶりの全国制覇 第22回東西王座決定戦で、早大が関西4連覇の関西学大に16−3で勝ち,/関東は早大が優勝、関西は関西学大の4連覇 早大が第21回関東大学対抗戦に全勝し2年ぶり8回目の優勝を,第1回は早稲田大学が出場し24−3で九州代表を破った。
日本ラグビーフットボール史 (全国大学選手権大会)

第44回全国大学選手権大会:早稲田大、手堅いディフェンスで勝利  優勝候補の早稲田大が2年ぶり14度目,第2試合は、早稲田大に対して帝京大が健闘し、早稲田大のモールを押し返すなど終始早大を苦しめた。,その後も2トライを奪った早稲田大の快勝だった。,込んで倒し、早稲田大にチャンスを与えない。,決勝戦は大方の予想通り早稲田大対帝京大となり、早稲田大はキックオフ直後FL布巻の突破からWTB荻野が約
日本ラグビーフットボール史 (《全国クラブ大会》)

グループからの出場チームで、初出場の2003年は帝京大学に10-38、つづく2004、2005年度はともに早稲田,勝者の早稲田大学監督、清宮克幸が2005年度の日本選手権で、初めてタマリバ・クラブと対戦した直後の報道陣,4月号から)    同じように敗者タマリバ・クラブのチームディレクター中竹竜二(今年度から母校の早稲田大学,じタマリバ・クラブの西澤周二が2005(平成17)年度の関東代表候補に選ばれたが、日本選手権での打倒早稲田
年代史・観戦記・その他資料 (平成26年(2014)1月12日 平成25年(2013)度 第50回大学選手権決勝)

年(2013)度 第50回大学選手権決勝 写真 機関誌 G:国立競技場 ○帝京大 41-34 早稲田大,キックオフ直後、早稲田大は、FL布巻の突破からWTB荻野が約40mを走りきる先制トライをあげ、5連覇を,15分にはFL杉永の前進からSO松田が抜けだし、早稲田大FB藤田をかわして右コーナーに走り込んだ。,早稲田大も反撃し、WTB荻野、CTB坪郷のトライで追い上げたが届かなかった。  ,一方、早稲田大の後藤監督は「20点に抑えないと勝てないと思っていた」と失点の多さを嘆いた。
日本ラグビーフットボール史 (《協会成立の経緯と背景》)

松村(帝)   FB  瀬良(立)    11月23日 秩父宮殿下ニハ明治神宮球場ニオケル早稲田大学対慶應義塾定期試合,1月1日 慶應対京大ゲーム  1月4日 早大対同志社ゲーム  1月7日 早大対京大ゲーム  1月,1月4日 秩父宮高松宮両殿下ニハ明治神宮外苑競技場ニ於ケル早稲田大学対同志社大学試合ニ御台臨ノ栄ヲ賜ウ,1月7日 秩父宮朝香宮両殿下ニハ明治神宮外苑競技場ニ於ケル京都帝国大学対早稲田大学試合ニ御台臨ノ栄ヲ賜,同夜、東京日々新聞社主催歓迎晩餐会 於日本青年館    2月5日  秩父宮殿下ニハ本日ノ早稲田大学対英軍試合
日本ラグビーフットボール史 (《オックスブリッジ大学連合とナイトゲーム》)

なお、日本で行われたラグビーのナイトゲームは1933(昭和8)年9月9日に早稲田大学・戸塚球場での全早稲田,24-17全慶應義塾大学 ④9月20日(秩父宮ラグビー場)  オックスブリッジ大学連合32-11全早稲田大学
年代史・観戦記・その他資料 (令和2年(2020)1月11日 令和元年(2019)度 第56回大学選手権決勝)

2020)1月11日 令和元年(2019)度 第56回大学選手権決勝 写真 機関誌 新国立競技場 ○早稲田大,56回大学選手権決勝 2020年 1月11日 G:新国立競技場 R: 久保 修平 KO 14:30 早稲田大,21分には山沢が早稲田ディフェンスの間隙をついて見事なランを見せトライ。,ロスタイムに入っても明治は攻め続け、早稲田も必死でタックルを続けた。,喜ぶ早稲田の横で愕然とする明治フィフティーン。
年代史・観戦記・その他資料 (令和3年(2021)1月11日 令和2年(2020)度 第57回大学選手権決勝)

2年(2020)度 第57回大学選手権決勝 写真 機関誌 新国立競技場 ○天理大 55-28 早稲田大,2021年 1月11日 G:国立競技場 R: 塩崎 公寿 KO 13:15 天理大 55 - 28 早稲田大,10分、同様の形で早稲田をゴール前に押し込んだラックから、今度は早稲田のサイドの防御が甘いとよんだモアラ,ここで早稲田に流れが来て互角の展開になるかと思われたが、天理SO松永は冷静に判断し、早稲田陣で得たペナルティ,後半6分、早稲田ゴール前の早稲田ボールの5mスクラムで、天理FWが強烈なプッシュをかけた。
年代史・観戦記・その他資料 (平成30年(2018)度)

・11月25日、早稲田大学ラグビー部100周年記念式典が開催した。,【大学】 第55回全国大学選手権、準決勝では天理大は帝京大を29-7、明治大は早稲田大を31-27でそれぞれ,関東対抗戦は帝京大、早稲田大が共に6勝1敗で優勝となった。
日本ラグビーフットボール史 (《日本とカナダの国際交流がはじまる》)

同じことが慶應や明治の上海遠征、そして日本代表のカナダ遠征の原点ともなった早稲田の豪州遠征へと遡っていく,徳川家正氏はその翌年に、カナダ公使として転任されたのであるが、ある会合の席上で、喜多壮一郎先生の御話や早稲田大学,昭和5年にカナダラグビー協会が、早稲田大学ラグビー部を、是非、カナダへ招待したいとの意向を徳川公使につたえ,カナダラグビー協会から正式の招待状をうけた早稲田大学ラグビー部では、部の内部事情のため、やむなく、この,滞在期間を9月に限定したのも学生の夏季休暇の有効利用にあったが、協会が心配した通り早稲田OBの坂倉雄吉
日本ラグビーフットボール史 (《早慶ラグビーに触発された東都の諸大学》)

《早慶ラグビーに触発された東都の諸大学》 早稲田大学に次ぐ東都第三のチーム誕生は東京帝大(以後東大),早稲田がそうであったように東大ラグビーも京洛の流れを汲む男が導いた大学のひとつといえる。,ここで注目されるのは、創部にあたって慶應義塾ではなく、早稲田に教えを請うていること。,一番強い慶應を倒すことをさしあたって今後の目標としなければならぬので、おそらく同じ考えであるであろう早稲田,創部は1924(大正13)年というから明治、立教両大学に次ぐ古豪といえるが、それにしても早稲田ラグビー
年代史・観戦記・その他資料 (令和2年(2020)度)

Aリーグ1位の天理大学が準決勝で関東大学対抗戦1位の明治大学に41-15で完勝し、決勝では前年覇者の早稲田大学
年代史・観戦記・その他資料 (3 YC&ACセブンズ)

東芝府中 3回 三洋電機(前東京三洋)、リコー、YCAC 2回 日野自動車(前日野ディーゼル)、明治大学、早稲田大学,東京三洋 32-13 ●横浜国大 第11回 昭和44年(1969)4.13 ○八幡製鉄 26-6 ●早大,18-11 ●エーコンクラブ 第14回 昭和47年(1972)4.16 ○新日鉄八幡 38-10 ●早大,23-6 ●東洋工業 第16回 昭和49年(1974)4.7 ○東京三洋 14-10 ●リコー ○早大,24-10 ●YCAC 第18回 昭和51年(1976)4.11 ○明大 24-14 ●同大 ○早大
日本ラグビーフットボール史 (《初めて目にした創始国のラグビー》)

さまをはじめ高松宮さま、秩父、三笠宮両妃殿下もお見えになったほか、駐日英国大使エスラー・デニング卿、早稲田大学総長島田孝一,オックスフォードのバックスが縦横に走りまくって一方的な展開となってしまったが、朝日新聞記者松岡洋郎(早稲田, OURFC 28-6 全慶應義塾 ②9月17日(東京ラグビー場)  OURFC 11-8 全早稲田
日本ラグビーフットボール史 (《創始校の牙城崩れる》)

恒例の1927(昭和2)年11月23日、神宮球場で行われた第6回早慶定期戦で早稲田が8−6の小差ながら,そして ①7〜9月早大の豪州遠征。②11月23日、29年不敗の慶應、早大に敗る。,早稲田の豪州遠征については、すでに前項でその要旨を紹介した。,同じように早稲田六十年史も「早稲田は勝敗にこだわり、新たに仕込んだ展開を忘れ、試合内容は凡戦に終わった,しかし早稲田ラグビー六十年史の記述には反省の言葉はあっても、勝利の喜びを伝える表現がない。
年代史・観戦記・その他資料 (平成25年(2013)度)

パナソニック)、堀江恭佑(ヤマハ) 【大学】 帝京大、見事な5連覇 帝京大が鉄壁な防御と豊富な運動量で早稲田大,関東大学対抗戦は帝京大が優勝、準優勝早稲田大、関東大学リーグは流通経済大が優勝、準優勝は中央大。
年代史・観戦記・その他資料 (昭和48年(1973)1月6日 昭和47年(1972)度 第9回大学選手権決勝)

後半の3分にも早大中村康がPGを決めて12−3と徐々にリードを広げた。,必死に防ぐ早稲田。“いけいけ”と明治のファン。“タックルだ”と早稲田のファン。,SH松尾がうまく早稲田の守りの崩れを誘って、左WTB渡辺貫へ好パス。,明治に積年の恨みを一気に晴らされた早稲田は、3連覇の夢も公式戦の連勝記録も失うことになったが、早明を中心,「早大はあの試合でディフェンスの役割分担を決めていた。
日本ラグビーフットボール史 (《部活動の発進を阻む早慶交流の断絶》)

早稲田出版の日本ラグビー物語その他の記録には慶應の体育会会長板倉(卓造)理事が特に反対意見を表して居り,早稲田の創部は1918(大正7)年11月だったのに対して、第1回早慶定期戦が現実のものとなったのは4年後,ラグビー創始校慶應義塾が嘗めた東都での対戦相手不在の辛酸を、いままた早稲田も経験しつつあるというわけである,それは恒例の塾内ラグビー大会に早稲田を招待することであった。,この誘いに答えた早稲田側がまた秀逸だった。
年代史・観戦記・その他資料 (7人制日本代表キャップ一覧(男子))

回香港セブンズ 第3回香港セブンズ 第4回香港セブンズ 4 豊山 京一 とよやま けいいち 早稲田大学,同志社大学 2 第1回香港セブンズ 第3回香港セブンズ 8 藤原 優 ふじわら まさる 早稲田大学,回香港セブンズ 第3回香港セブンズ 第4回香港セブンズ 9 畠本 裕士 はたもと ひろし 早稲田大学,2 第7回香港セブンズ 第10回香港セブンズ 28 土屋 謙太郎 つちや けんたろう 早稲田大学,第13回香港セブンズ 第3回豪州NSW国際セブンズ 29 益子 俊志 ましこ としゆき 早稲田大学
年代史・観戦記・その他資料 (令和元年(2019)度)

】  新型コロナウイルス感染症拡大により、第6節で中止となりリーグは不成立 【大学】  大学は早稲田大,が11年ぶりに優勝 第56回大学選手権では、準決勝で強豪天理大に完勝した早稲田大が、決勝では、対抗戦で
年代史・観戦記・その他資料 (平成15年(2003)1月11日 平成14年(2002)度 第39回大学選手権決勝)

前半7分、早大山下がトライ(田原ゴール)。14分早大仲山が50メートル走ってトライ(田原ゴール)。,32分早大田原PG。35分関東学大鈴木力がトライ。早大22−10関東学大。,早大27−22関東学大。,昨年からの成長を見せつけた早大。,その鋭い出足から足元へ飛び込む猛タックルは早稲田復活の殊勲者といってよい」(『新版早稲田ラグビー史の研究
日本ラグビーフットボール史 (《5大学リーグが新たに発足》)

参加校は慶應、早稲田、東大、明治、立教の5校。,暮から正月にかけての東西対抗でも東大、慶應、早稲田を破って全国制覇達成というビッグタイトルを獲得した。,明治、立教とは対戦していないし、また早稲田も関東での大学の対戦相手は慶應、明治、東大の3校だけ。,日本ラグビー史は「実力的判定から、早大は関東代表と認められ、関西代表の京大との試合は、全国覇者決定戦の,…」と、話し合いで早稲田が関東代表となった理由を記しているが、認定者がだれであるかは触れていない。
日本ラグビーフットボール史 (Ⅲ 大学選手権に青春をかけて)

31年ぶりに4度目の連覇を果たした早稲田が悲願の3連覇に挑むことができるかどうか。,この早稲田を追うのが明治ラグビー。,このように早稲田の選手権決勝での敗戦を統計すると、対明治の6敗が最多。,ここ5年間の決勝は早稲田と関東学院の対決がつづく新旧対立の構図となっているが、現時点では早稲田の2勝3,いらい3度の2連覇をはたしている大学ラグビーの新しい実力派関東学院は第43回大会(2006年度)を制し、早大
年代史・観戦記・その他資料 (平成17年(2005)1月9日 平成16年(2004)度 第41回大学選手権決勝)

31-19 関東学大● 荒ぶる再び 早稲田王座奪回 平成16年(2004)度 第41回大学選手権決勝,前半3分早大WTB内藤慎がトライ(五郎丸ゴール)。32分早大五郎丸50メートル独走してトライ。,36分関東学大FL北川忠が早大SO安藤のキックをチャージしてトライ(藤井ゴール)。,13分早大モールから安藤が抜いてトライ(五郎丸ゴール)。,17分早大ラインアウトから内橋が60メートル独走トライ(五郎丸ゴール)。39分、早大今村がトライ。
日本ラグビーフットボール史 (《舞台は変わって盟主の座は早と明》)

殊勲の早稲田時代到来か、と色めきたった瞬間もあったが、豪州遠征で学んだ本場ラグビーの不消化や疲れが解消,    早稲田  1933年  早稲田    早稲田  1934年  明治     明治  1935,年  明治     明治  1936年  早稲田    早稲田  1937年  早稲田    早稲田,    早稲田  1942年春 早稲田    早稲田  1942年秋 慶應     慶應 ※5大学,リーグ結成の前年のため早稲田が優勝校と認定される。
年代史・観戦記・その他資料 (昭和50年(1975)1月4日 昭和49年(1974)度 第11回大学選手権決勝)

1月4日 昭和49年(1974)度 第11回大学選手権決勝 写真 機関誌 秩父宮ラグビー場 ○早大,18-0 明大● 早大危なげなく2連覇 宿敵明大を完封 昭和49年(1974)度 第11回大学選手権決勝,1975年1月4日 G:国立競技場 R:町井徹郎 KO 14:00 早大 18 - 0 明大 1 佐野,になって記録を調べたら昭和になって初めてのことであった[大正時代の第2回と第4回の定期戦に0封している『早稲田,前半4分、早大は植山がPG成功。35分ラックから右に回しNo8山下がトライ。
年代史・観戦記・その他資料 (昭和3年(1928)度)

/関東5大学対抗戦(慶大、早大、明大、東大、立大)始まる、関西は京大が連覇 これまで対抗戦としてばらばらに,第1回関東大学対抗戦 昭和3年度(1928) 優勝 慶応大学(1回目) 順位 チーム 慶大 明大 早大,○18−3 4 0 0 2 明大 ●11−13 ○11−3 ○42−8 ○29−3 3 0 1 3 早大,/京大対早大の定期戦中止 1月7日の京大対早大戦で、京大が9−6で早大を破ったが、ルール解釈の相違から, 中学は同志社中、高専は立大予科が優勝 第11回全国中学大会は同志社中(3年連続9回目)が41−0で早稲田実業
日本ラグビーフットボール史 (《日本協会創設35周年と50周年記念祭》)

(YC&AC)  慶應を始め我が国の若いチームを指導育成して今日の隆盛に導かれた功績 ☆早稲田大学豪州遠征
日本ラグビーフットボール史 (《早明の真髄は横と縦の「ゆさぶり」》)

《早明の真髄は横と縦の「ゆさぶり」》 【早稲田と横のゆさぶり】  早稲田ラグビーの豪州遠征は世間を,ラグビーファンならずとも帰国後の早稲田に「何か」を期待するのは当然のことといえる。,そして早稲田は期待にたがわずでっかいことをやってのけた。「打倒慶應」の一番乗りである。,世間が早稲田ラグビーを評価し、覇者交代の筆頭に早稲田を期待したとしても無理ないことといえるだろう。,「ゆさぶり戦法」の完成とともに早稲田は初の全国制覇を達成。
日本ラグビーフットボール史 (《京大エイトFWの全国制覇》)

シーズン前半の主役に前述の早稲田が推されたとしても異論を唱えるむきはないと思う。,早稲田の上位に立つことができなかった。,しかし実力的判定から、早大は関東の代表と認められ、関西代表の京大との試合は、全国覇者決定戦の名が与えられた,その点、早稲田が豪州遠征で学んだという展開ラグビーに相通ずるものがあるが、一つ京大と早稲田で違うのは、,早稲田の試験台となった豪州FWの3・2・3フォーメーションと5試合も対戦しながら、帰国後の早稲田にはエイト
年代史・観戦記・その他資料 (平成3年(1991)1月6日 平成2年(1990)度 第27回大学選手権決勝)

一方の早大は頼みの守屋が2つのPGを外して前途に暗雲を感じさせる。,やきもきする早大を沸かせたのは31分の増保のトライだ。,明大を率いるキャプテン吉田が、自らの激走で早大を破った瞬間であった。,その後早大にも、もうワンチャンスあった。,だが郷田の身体はコーナーポストに当たり、秋の同点優勝の決着は明大の逆転優勝で幕が閉じられた」(『早稲田
日本ラグビーフットボール史 (《ダークブルーの次はライトブルーのケンブリッジ大学》)

ただ、早稲田ラグビー六十年史が伝えるオックスブリッジ両大学招聘記事の内容も大要ではほぼ同じといえるが、,続いて、ケ大からも回答があり、困りもしたが、次年に、また混成チームは昭和34年に招くことになった」(早稲田,第4戦の対全早稲田戦では当日券売り場ににファンの長い列ができてキックオフを10分遅らせるなど、日本協会,それもノーサイド寸前にオックスフォードがFEのDGで早稲田を振り切る劇的な幕切れだっただけに、1年後の,早稲田ラグビー六十年史は「…後半、体力的な差が現れ、FWの動きが鈍った。
日本ラグビーフットボール史 (《揺れる大学ラグビー界》)

との対戦は自由▼明治は慶應、早稲田との対戦を無料試合とする─の3点を関東協会に通告。,前年度の成績に準じて、Aブロックは慶應、早稲田、明治、日本、中央、立教の6大学。,⑤慶應・早稲田がA、Bブロック交替(1961年度)  慶應がBブロックで全勝、代わって早稲田がBブロック,また慶應は定期戦でAブロックの早稲田、明治を連破する。   ⑥早稲田がBブロック全勝。,上位の明治も倒す(1962年度)  早稲田がBブロックで優勝。
日本ラグビーフットボール史 (《ルール改正とエイトFW》)

にはじまり第35条に至る計15ヵ条という膨大なものであったが、明治とともに早明時代を演出する一方の雄、早稲田,早稲田ラグビー六十年史は1939年度の項で「エイトFWへの模索」と題して、今回のルール改正のポイントと,、それによる早稲田ラグビーへの影響、「とくに明治戦を想定して分析した場合…」という断りつきで取上げている,そのうえで同年史は①の改正点の影響について「早稲田のセブンシステムの特長の一つとして、スクラムサイド周辺,しかしながら早稲田は①草創以来のセブンシステムに対する技術と伝統を大転換することになり、その変革には大
年代史・観戦記・その他資料 (令和6年(2024)1月13日 令和5年(2023)度 第60回大学選手権決勝)

京都産業大は前年度1点差で惜敗(準決勝)した早稲田大に準々決勝で完勝し、初の決勝進出を目指して明治大に,しかし準々決勝の激闘の疲れか、早稲田大に雪辱した達成感が影響したのか最後は力尽きる形で明治に突き放された
年代史・観戦記・その他資料 (大正11年(1922)度)

慶応の大市信吉と早稲田の中村元一が十数回会合を重ね、関係者の努力が実って11月23日に三田綱町グラウンド,部創部  同年春、創設者能美一男が中心となり、柔道仲間の島崎軍二、大里弼二郎、鎌田久眞男らを説得し、早大,その他の主要試合 〈関東〉 T11(1922).11.5 ●早大 0−15 ○YCAC G:横浜根岸,G:早大戸塚 R:大市信吉 第3回定期戦 T12(1923).1.11 ●三高 0−3 ○東大 G:,一高 R:メーズ 第2回定期戦1) T12(1923).1.11 ○同大 3−0 ●早大 G:早大戸塚
/ 9ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました