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日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム

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日本ラグビーフットボール史 (《早稲田が豪州へ遠征》)

《早稲田が豪州へ遠征》 早稲田大学ラグビー蹴球部が1927(昭和2)年7月13日、神戸港出帆の日本郵船安芸丸,早稲田ラグビー六十年史は、5戦して勝利なしの5敗だったことを記したうえで「ある豪州の新聞には、身体に著,往路はともかく、帰路にいたって問題が起こったことを早稲田ラグビー六十年史は次のように報告している。,早稲田ラグビーは31大会ぶりに大学選手権2連覇をはたした。国立競技場をおおう冷気と感動の輪。,早稲田が最初の海外遠征地に選んだ豪州ラグビーの歴史は古い。 / 《早稲田が豪州へ遠征》
日本ラグビーフットボール史 (《早稲田ラグビー誕生の意義》)

《早稲田ラグビー誕生の意義》 早稲田大学にラグビー蹴球部が誕生した。,その日を早稲田ラグビー六十年史は1918(大正7)年11月7日とし、創部の日と定めている。,そのような「ゆがんだ構造」が形成されつつあったところでの早稲田ラグビーの登場である。,早稲田といえば大学創立いらい、何かにつけて慶應義塾とライバル視されてきた大学である。,早稲田ラグビーの成立がそれほど大きな出来事だったことは、その後の日本ラグビー界の発展ぶりが如実に物語っている / 《早稲田ラグビー誕生の意義》
日本ラグビーフットボール史 (《草創から初期の早稲田を支えた京都人脈》)

《草創から初期の早稲田を支えた京都人脈》 早稲田ラグビーの歴史を語るとき忘れてならないのが京都人脈の,早稲田ラグビー六十年史第1章「草創時代」の要旨を転載させてもらおう。    ,時代は変わって昭和にはいると早稲田=京都の関係はさらに鮮明に浮かび上がってくる。,戦後の早稲田はいざしらず、少なくとも発祥から戦前の早稲田ラグビー黄金時代を語るとき、京都出身者なくして,これが早稲田ラグビー戦前の部の歴史である。 / 《草創から初期の早稲田を支えた京都人脈》
日本ラグビーフットボール史 (《舞台は変わって盟主の座は早と明》)

殊勲の早稲田時代到来か、と色めきたった瞬間もあったが、豪州遠征で学んだ本場ラグビーの不消化や疲れが解消,    早稲田  1933年  早稲田    早稲田  1934年  明治     明治  1935,年  明治     明治  1936年  早稲田    早稲田  1937年  早稲田    早稲田,    早稲田  1942年春 早稲田    早稲田  1942年秋 慶應     慶應 ※5大学,リーグ結成の前年のため早稲田が優勝校と認定される。
年代史・観戦記・その他資料 (決勝記録一覧)

レフリー 【大学選手権大会決勝】 第1回 昭和40年(1965)1.10 ○法政大学 14−6 ●早稲田大学,秩父宮ラグビー場 江田昌佑 第2回 昭和41年(1966)1.5 ○早稲田大学 16−0 ●法政大学,秩父宮ラグビー場 西山常夫 第3回 昭和42年(1967)1.7 ○早稲田大学 18−3 ●法政大学,秩父宮ラグビー場 江田昌佑 第4回 昭和43年(1968)1.7 ○法政大学 11−8 ●早稲田大学,秩父宮ラグビー場 西山常夫 第5回 昭和44年(1969)1.5 △慶応大学 14−14 △早稲田大学
年代史・観戦記・その他資料 (令和7年(2025)1月13日 令和6年(2024)度 第61回大学選手権決勝)

14 24分 早稲田大学 8.鈴木風詩 T 12 - 14 26分 早稲田大学 12,この位置だと、早稲田のDFはBK陣となり、青木は早稲田のBKを次々になぎ倒してトライラインへ大きく前進,この日スクラムでも優位に立つ帝京大は再び早稲田陣ゴール前に迫り、12分、FWの縦突進を早稲田のDFに何度,その後、帝京大は再び攻勢に出て前進し早稲田ゴール前に迫るも、早稲田も仕込んできたダブルタックルで応戦。,これで早稲田に流れが来ると思われたが、帝京大が自陣から蹴ったキックを、ハーフウェイ左で受けた早稲田SO
年代史・観戦記・その他資料 (令和5年(2023)1月8日 令和4年(2022)度 第59回大学選手権決勝)

17分 早稲田大学 11.松下怜央 T 7 - 12 18分 早稲田大学 12.吉村紘,そのボールを早稲田大が手痛い落球。,早稲田としては前半終了間際の痛い失点となった。  後半、早稲田のキックオフで試合開始。,気持ちを切り替えた早稲田が攻勢に出る。,後半5分、早稲田のオフサイドで得たPKで、帝京はPGを狙わず、早稲田陣右22m内にタッチキックを蹴り、
日本ラグビーフットボール史 (《早明の真髄は横と縦の「ゆさぶり」》)

《早明の真髄は横と縦の「ゆさぶり」》 【早稲田と横のゆさぶり】  早稲田ラグビーの豪州遠征は世間を,ラグビーファンならずとも帰国後の早稲田に「何か」を期待するのは当然のことといえる。,そして早稲田は期待にたがわずでっかいことをやってのけた。「打倒慶應」の一番乗りである。,世間が早稲田ラグビーを評価し、覇者交代の筆頭に早稲田を期待したとしても無理ないことといえるだろう。,「ゆさぶり戦法」の完成とともに早稲田は初の全国制覇を達成。
年代史・観戦記・その他資料 (令和3年(2021)1月11日 令和2年(2020)度 第57回大学選手権決勝)

準決勝では明治をパワーで押し切り、決勝戦では早稲田を総合力で圧倒した。,普段は試合の序盤で相手を動揺させる早稲田が、逆に驚かされる形のスタートとなった。,10分、同様の形で早稲田をゴール前に押し込んだラックから、今度は早稲田のサイドの防御が甘いとよんだモアラ,ここで早稲田に流れが来て互角の展開になるかと思われたが、天理SO松永は冷静に判断し、早稲田陣で得たペナルティ,後半6分、早稲田ゴール前の早稲田ボールの5mスクラムで、天理FWが強烈なプッシュをかけた。
年代史・観戦記・その他資料 (決勝記録一覧)

京都大学 11−5 ●慶応大学 神宮競技場 目良篤 昭和3年(1928)1.7 ○京都大学 14−11 ●早稲田大学,1.7 ○明治大学 54−11 ●京都大学 神宮競技場 目良篤 第6回 昭和8年(1933)1.3 ○早稲田大学,27−3 ●同志社大学 花園ラグビー場 巌栄一 第7回 昭和9年(1934)1.3 △早稲田大学 8,9−8 ●同志社大学 花園ラグビー場 阿部吉蔵 第11回 昭和12年(1937)11.3 ○早稲田大学,8−6 ●同志社大学 花園ラグビー場 杉本彰 第25回 昭和29年(1954)1.3 ○早稲田大学
年代史・観戦記・その他資料 (平成26年(2014)1月12日 平成25年(2013)度 第50回大学選手権決勝)

年(2013)度 第50回大学選手権決勝 写真 機関誌 G:国立競技場 ○帝京大 41-34 早稲田大,キックオフ直後、早稲田大は、FL布巻の突破からWTB荻野が約40mを走りきる先制トライをあげ、5連覇を,15分にはFL杉永の前進からSO松田が抜けだし、早稲田大FB藤田をかわして右コーナーに走り込んだ。,早稲田大も反撃し、WTB荻野、CTB坪郷のトライで追い上げたが届かなかった。  ,一方、早稲田大の後藤監督は「20点に抑えないと勝てないと思っていた」と失点の多さを嘆いた。
年代史・観戦記・その他資料 (令和2年(2020)1月11日 令和元年(2019)度 第56回大学選手権決勝)

前半終了直前には1年生の相良がトライをあげ早稲田が31-0で前半を終えた。,21分には山沢が早稲田ディフェンスの間隙をついて見事なランを見せトライ。,次に明治が取ればと思われた34分、早稲田が8-9サイドアタックを見せる。,ロスタイムに入っても明治は攻め続け、早稲田も必死でタックルを続けた。,喜ぶ早稲田の横で愕然とする明治フィフティーン。
日本ラグビーフットボール史 (Ⅲ 大学選手権に青春をかけて)

31年ぶりに4度目の連覇を果たした早稲田が悲願の3連覇に挑むことができるかどうか。,この早稲田を追うのが明治ラグビー。,しかも早稲田の3勝は第10回、第11回、第13回と1970年代前半に記録したもの。,このように早稲田の選手権決勝での敗戦を統計すると、対明治の6敗が最多。,ここ5年間の決勝は早稲田と関東学院の対決がつづく新旧対立の構図となっているが、現時点では早稲田の2勝3
日本ラグビーフットボール史 (《ダークブルーの次はライトブルーのケンブリッジ大学》)

ただ、早稲田ラグビー六十年史が伝えるオックスブリッジ両大学招聘記事の内容も大要ではほぼ同じといえるが、,続いて、ケ大からも回答があり、困りもしたが、次年に、また混成チームは昭和34年に招くことになった」(早稲田,第4戦の対全早稲田戦では当日券売り場ににファンの長い列ができてキックオフを10分遅らせるなど、日本協会,それもノーサイド寸前にオックスフォードがFEのDGで早稲田を振り切る劇的な幕切れだっただけに、1年後の,早稲田ラグビー六十年史は「…後半、体力的な差が現れ、FWの動きが鈍った。
日本ラグビーフットボール史 (《揺れる大学ラグビー界》)

との対戦は自由▼明治は慶應、早稲田との対戦を無料試合とする─の3点を関東協会に通告。,前年度の成績に準じて、Aブロックは慶應、早稲田、明治、日本、中央、立教の6大学。,⑤慶應・早稲田がA、Bブロック交替(1961年度)  慶應がBブロックで全勝、代わって早稲田がBブロック,また慶應は定期戦でAブロックの早稲田、明治を連破する。   ⑥早稲田がBブロック全勝。,上位の明治も倒す(1962年度)  早稲田がBブロックで優勝。
日本ラグビーフットボール史 (《創始校の牙城崩れる》)

恒例の1927(昭和2)年11月23日、神宮球場で行われた第6回早慶定期戦で早稲田が8−6の小差ながら,早稲田の豪州遠征については、すでに前項でその要旨を紹介した。,同じように早稲田六十年史も「早稲田は勝敗にこだわり、新たに仕込んだ展開を忘れ、試合内容は凡戦に終わった,しかし早稲田ラグビー六十年史の記述には反省の言葉はあっても、勝利の喜びを伝える表現がない。,慶應蹴球部六十年史は早稲田のそれとは対照的な手記を、歴史の記録として後世に伝えている。紹介しよう。
日本ラグビーフットボール史 (《ルール改正とエイトFW》)

にはじまり第35条に至る計15ヵ条という膨大なものであったが、明治とともに早明時代を演出する一方の雄、早稲田,早稲田ラグビー六十年史は1939年度の項で「エイトFWへの模索」と題して、今回のルール改正のポイントと,、それによる早稲田ラグビーへの影響、「とくに明治戦を想定して分析した場合…」という断りつきで取上げている,そのうえで同年史は①の改正点の影響について「早稲田のセブンシステムの特長の一つとして、スクラムサイド周辺,しかしながら早稲田は①草創以来のセブンシステムに対する技術と伝統を大転換することになり、その変革には大
日本ラグビーフットボール史 (《部活動の発進を阻む早慶交流の断絶》)

早稲田出版の日本ラグビー物語その他の記録には慶應の体育会会長板倉(卓造)理事が特に反対意見を表して居り,早稲田の創部は1918(大正7)年11月だったのに対して、第1回早慶定期戦が現実のものとなったのは4年後,ラグビー創始校慶應義塾が嘗めた東都での対戦相手不在の辛酸を、いままた早稲田も経験しつつあるというわけである,それは恒例の塾内ラグビー大会に早稲田を招待することであった。,この誘いに答えた早稲田側がまた秀逸だった。
日本ラグビーフットボール史 (全国大学選手権大会)

第44回全国大学選手権大会:早稲田大、手堅いディフェンスで勝利  優勝候補の早稲田大が2年ぶり14度目,第2試合は、早稲田大に対して帝京大が健闘し、早稲田大のモールを押し返すなど終始早大を苦しめた。,その後も2トライを奪った早稲田大の快勝だった。,込んで倒し、早稲田大にチャンスを与えない。,決勝戦は大方の予想通り早稲田大対帝京大となり、早稲田大はキックオフ直後FL布巻の突破からWTB荻野が約
年代史・観戦記・その他資料 (九州朝日招待試合史)

○明治大 36−14 ●九州代表 平和台競技場 平山新一 第3回 昭和28年(1953)1.18 ○早稲田大,46−0 ●九州代表 平和台競技場 平山新一 第4回 昭和29年(1954)1.15 ○早稲田大 16,●日本大 10−29 ○九州代表 平和台競技場 松岡正也 第7回 昭和32年(1957)1.15 ○早稲田大,●慶応大 5−23 ○九州代表 平和台競技場 堀 博俊 第9回 昭和34年(1959)1.15 ○早稲田大,45−24 ●九州代表 博多の森 石本月洋 第56回 平成18年(2006)3.12 ●早稲田大 27
日本ラグビーフットボール史 (《京大エイトFWの全国制覇》)

シーズン前半の主役に前述の早稲田が推されたとしても異論を唱えるむきはないと思う。,その早稲田絶対説を揺るがしたのが、関東のシーズン最終戦でヒーローとの直接対決に大勝した東大だった。,早稲田の上位に立つことができなかった。,その点、早稲田が豪州遠征で学んだという展開ラグビーに相通ずるものがあるが、一つ京大と早稲田で違うのは、,早稲田の試験台となった豪州FWの3・2・3フォーメーションと5試合も対戦しながら、帰国後の早稲田にはエイト
日本ラグビーフットボール史 (《5大学リーグが新たに発足》)

参加校は慶應、早稲田、東大、明治、立教の5校。,暮から正月にかけての東西対抗でも東大、慶應、早稲田を破って全国制覇達成というビッグタイトルを獲得した。,明治、立教とは対戦していないし、また早稲田も関東での大学の対戦相手は慶應、明治、東大の3校だけ。,…」と、話し合いで早稲田が関東代表となった理由を記しているが、認定者がだれであるかは触れていない。
日本ラグビーフットボール史 (《ラグビー界に衝撃の入場料徴収》)

交渉の席についていた慶應蹴球部の大市信吉主将は「とくに観客整理の一方法として、入場料徴収を早稲田側から,しかし、第2回定期戦の実施に当たって早稲田側から再度の入場料問題が提案された。,早稲田六十年史ははなはだ率直かつ現実的な記述を残している。,ところで、入場料問題にたいする早稲田六十年史の指摘はなかなか鋭い。,かくして早稲田側の二度にわたる入場料徴収問題の提案は、設立されたばかりのラグビー統括機関、関東協会の手
日本ラグビーフットボール史 (《豪州&NZ大学選抜が相次いで来日》)

豪州側の交渉窓口となったマーチンとは、早稲田の豪州遠征にも親身になって世話をしてくれた恩人とか。,早稲田の豪州遠征時にNSW選抜、シドニー大学のFBとして対戦したR.ウェストフィールドが主将に選ばれている,早稲田六十年史が豪州遠征の項で「…往路からの緊張、試合の疲労は、復路になって一時に解放され、無為の航海,なお、日本側は慶應、早稲田、日本代表(2試合)がセブンFW。,このあと、明治、早稲田、日本学生が神宮競技場で対戦。
年代史・観戦記・その他資料 (日本選手権大会の歩み)

第3回大会は横井久監督、矢部達三主将の早稲田大学が、八幡製鉄を12−9で破り初優勝した。,第13回大会までは、早稲田大学が3回、同志社大学、日本体育大学、明治大学が各1回優勝し、近鉄3回、リコー,分け優勝1を含む) 5 パナソニックワイルドナイツ 6回 (三洋電機時代の優勝回数3回を含む) 6 早稲田大学,花園ラグビー場 野々村博 第12回 昭和50年(1975)1.15 ○近畿日本鉄道 33−13 ●早稲田大学,自動車 26−6 ●大東文化大学 国立競技場 真下 昇 第25回 昭和63年(1988)1.15 ○早稲田大学
年代史・観戦記・その他資料 (昭和48年(1973)1月6日 昭和47年(1972)度 第9回大学選手権決勝)

必死に防ぐ早稲田。“いけいけ”と明治のファン。“タックルだ”と早稲田のファン。,SH松尾がうまく早稲田の守りの崩れを誘って、左WTB渡辺貫へ好パス。,明治に積年の恨みを一気に晴らされた早稲田は、3連覇の夢も公式戦の連勝記録も失うことになったが、早明を中心
日本ラグビーフットボール史 (《早慶ラグビーに触発された東都の諸大学》)

《早慶ラグビーに触発された東都の諸大学》 早稲田大学に次ぐ東都第三のチーム誕生は東京帝大(以後東大),早稲田がそうであったように東大ラグビーも京洛の流れを汲む男が導いた大学のひとつといえる。,ここで注目されるのは、創部にあたって慶應義塾ではなく、早稲田に教えを請うていること。,一番強い慶應を倒すことをさしあたって今後の目標としなければならぬので、おそらく同じ考えであるであろう早稲田,創部は1924(大正13)年というから明治、立教両大学に次ぐ古豪といえるが、それにしても早稲田ラグビー
日本ラグビーフットボール史 (《日本とカナダの国際交流がはじまる》)

同じことが慶應や明治の上海遠征、そして日本代表のカナダ遠征の原点ともなった早稲田の豪州遠征へと遡っていく,カナダラグビー協会から正式の招待状をうけた早稲田大学ラグビー部では、部の内部事情のため、やむなく、この,滞在期間を9月に限定したのも学生の夏季休暇の有効利用にあったが、協会が心配した通り早稲田OBの坂倉雄吉,日本代表選手 【FW】 太田義一(早稲田) 矢飼督之(慶應) 根本弘道(立教) 岩下秀三郎(,) 鈴木秀丸(法政) 【FB】 寺村誠一(東大OB) 小船伊助(早稲田) (注)☆は主将
日本ラグビーフットボール史 (《実業団と軍隊ラグビー》)

早稲田六十年史には3試合の記載があった。いずれも国鉄チームとの対戦。,29−6で早稲田が勝っているが、競技場は空白。,を行い、第1試合は20−23で早稲田2軍の惜敗。,第2試合は8−6で早稲田2軍が辛勝している。,ただ、早稲田六十年史掲載の記録をたどっていくと、大正12(1923)年度のところで早稲田関係のチームと
日本ラグビーフットボール史 (《早慶定期戦と主催者AJRAの役割》)

両校蹴球部の間でどのような話が交わされたのか定かではないが、早稲田六十年史によると「9月のころ、中村(,この中村元一という人物だが、早稲田側の史実によると「初代マネジャー」とあり、早慶戦実現に向けての交渉では,「慶應との交渉にあたり手腕をふるい、みごとに大町(清)主将の代役を務めた」と早稲田六十年史は激賞。,早稲田側の立役者だったことに間違いはない。    
日本ラグビーフットボール史 (《全国クラブ大会》)

グループからの出場チームで、初出場の2003年は帝京大学に10-38、つづく2004、2005年度はともに早稲田,勝者の早稲田大学監督、清宮克幸が2005年度の日本選手権で、初めてタマリバ・クラブと対戦した直後の報道陣,4月号から)    同じように敗者タマリバ・クラブのチームディレクター中竹竜二(今年度から母校の早稲田大学,じタマリバ・クラブの西澤周二が2005(平成17)年度の関東代表候補に選ばれたが、日本選手権での打倒早稲田
年代史・観戦記・その他資料 (大正9年(1920)度)

野球の早慶戦で応援合戦が過熱し一触即発の不穏な雲行きとなり1勝1敗で迎えた3回戦が急遽中止された」(『早稲田,スポーツの一世紀』P16、早稲田大学、1993) 2) 三高蹴球部史P226に11.27、関西協会史
年代史・観戦記・その他資料 (大学東西王座決定戦の歩み)

昭和2年(1927)11月23日の第6回早慶戦で慶応大学は早稲田大学に6−8で敗れ、創部以来初めて日本人,大学東西王座決定戦(35回) 優勝チームおよび優勝回数 1 早稲田大学 11回 2 明治大学 9回 3
日本ラグビーフットボール史 (《創始校倒れて新旧が一線に…》)

もちろん、その先頭をきったのは前述の通り殊勲の早稲田ではあったが、西の雄京大との競り合いに負けて全国制覇,栄光の後の翌1931(昭和6)年度は明治、早稲田に敗れて3位転落。
日本ラグビーフットボール史 (《関東に地域協会が設立される》)

田中銀之助を戴き、慶應OBから橋本寿三郎、増田鉱太郎、永井信二郎、東大OBから香山蕃、久富達夫、井場直人、早稲田,委員には山口六助、宮地秀雄(以上慶應)、吉田光一、吉岡恒治(以上早稲田)、久富達夫(兼任)、石田啓次郎
年代史・観戦記・その他資料 (大学選手権の歩み)

大学選手権大会(60回) 優勝チームおよび優勝回数 1 早稲田大学 16回 (引き分け優勝1を含む)
日本ラグビーフットボール史 (《オックスブリッジ大学連合とナイトゲーム》)

なお、日本で行われたラグビーのナイトゲームは1933(昭和8)年9月9日に早稲田大学・戸塚球場での全早稲田,24-17全慶應義塾大学 ④9月20日(秩父宮ラグビー場)  オックスブリッジ大学連合32-11全早稲田大学
年代史・観戦記・その他資料 (平成15年(2003)1月11日 平成14年(2002)度 第39回大学選手権決勝)

その鋭い出足から足元へ飛び込む猛タックルは早稲田復活の殊勲者といってよい」(『新版早稲田ラグビー史の研究
日本ラグビーフットボール史 (《メッカ神宮競技場と東都のラグビー》)

早慶につづいて早同、早帝の試合でも有料試合は行われたが、このときも試合会場は三田綱町の慶應グラウンド、早稲田,「第2回は中等学校関東代表早稲田実業、関西代表同志社中学が顔を合わせ、同志社が26対0で勝ち、専門学校
年代史・観戦記・その他資料 (平成30年(2018)度)

・11月25日、早稲田大学ラグビー部100周年記念式典が開催した。,【大学】 第55回全国大学選手権、準決勝では天理大は帝京大を29-7、明治大は早稲田大を31-27でそれぞれ,関東対抗戦は帝京大、早稲田大が共に6勝1敗で優勝となった。
年代史・観戦記・その他資料 (大正7年(1918)度)

大正7年(1918)度 English Español 20シーズン目 早稲田大学ラグビー
日本ラグビーフットボール史 (《1943(昭和18)、44(昭和19)年の空白を乗り越えて》)

早稲田ラグビー六十年史によると「3000人の観衆を集めた」とあるが、東京の大学同士の対戦、それもOB中心,全早稲田はつづいて5月には京都に遠征し、全京大とも対戦している。,視点を変えれば、慶應にしても、また早稲田にしても関西出身のOBが多く、メンバー編成がスムーズにできたことが,全早慶ラグビー】  日時:1946(昭和21)年4月29日  場所:兵庫・西宮球技場    全早稲田
年代史・観戦記・その他資料 (平成25年(2013)度)

パナソニック)、堀江恭佑(ヤマハ) 【大学】 帝京大、見事な5連覇 帝京大が鉄壁な防御と豊富な運動量で早稲田大,関東大学対抗戦は帝京大が優勝、準優勝早稲田大、関東大学リーグは流通経済大が優勝、準優勝は中央大。
日本ラグビーフットボール史 (《初めて目にした創始国のラグビー》)

さまをはじめ高松宮さま、秩父、三笠宮両妃殿下もお見えになったほか、駐日英国大使エスラー・デニング卿、早稲田大学総長島田孝一,オックスフォードのバックスが縦横に走りまくって一方的な展開となってしまったが、朝日新聞記者松岡洋郎(早稲田, OURFC 28-6 全慶應義塾 ②9月17日(東京ラグビー場)  OURFC 11-8 全早稲田
年代史・観戦記・その他資料 (昭和50年(1975)1月4日 昭和49年(1974)度 第11回大学選手権決勝)

になって記録を調べたら昭和になって初めてのことであった[大正時代の第2回と第4回の定期戦に0封している『早稲田
日本ラグビーフットボール史 (《日本選手権の変遷》)

優勝回数でいえば大学6回に対し、社会人7回と数字のうえでは社会人が1回上回っており、2連覇の数も大学は早稲田,つの連覇を挟んだ中間にあたる1970(昭和45)年度からの3年間は、第7回が日体、つづく第8、9回は早稲田,実力の点では互角だったとしても、全国区での経験という意味では日体、早稲田に一日の長があった。  ,慶應は初の選手権獲得、また早稲田は17年ぶり3度日のチャンピオンの座となるわけであるが、日本選手権で大学,早稲田が東芝を破って3度目の日本一      同じ日本選手権7連覇の偉業を達成した新日鉄釜石
年代史・観戦記・その他資料 (平成17年(2005)1月9日 平成16年(2004)度 第41回大学選手権決勝)

41回大学選手権決勝 写真 機関誌 国立競技場 ○早大 31-19 関東学大● 荒ぶる再び 早稲田王座奪回
日本ラグビーフットボール史 (《戦前の関東大学は慶應の復活とともに終焉へ》)

ルールが大幅に改正された1939(昭和14)年後のエイト転向なら早稲田の例がある。,次いで同年後期シーズンの秋季に宿敵早稲田を11−5のスコアで破って、1931(昭和6)年度に野へ降って
日本ラグビーフットボール史 (《再燃した京大発の入場料問題》)

要約すると、1922(大正11)年の第1回定期戦で早稲田サイドからこの問題の打診が慶應側にあり、翌年の,関西のチームという点では同志社が、また帝大という官立(当時)系としては東大がそれぞれ早稲田との有料試合
年代史・観戦記・その他資料 (令和元年(2019)度)

】  新型コロナウイルス感染症拡大により、第6節で中止となりリーグは不成立 【大学】  大学は早稲田大,が11年ぶりに優勝 第56回大学選手権では、準決勝で強豪天理大に完勝した早稲田大が、決勝では、対抗戦で
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