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日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム

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日本ラグビーフットボール史 (日本選手権大会)

日本ラグビーフットボール史 / 日本選手権大会 第45回日本選手権大会 三洋電機:惜敗の歴史に終止符  45回目を迎えた日本選手権,第46回日本選手権大会 三洋電機:粘り強いディフェンスで連覇  様々なカテゴリーのチームが集う日本選手権,第48回日本選手権大会 サントリー:9年ぶりの日本一  エディ・ジョーンズ監督就任1年目。,連覇に続いて日本選手権三連覇を達成。,第52回日本選手権大会 ヤマハ発動機:悲願の初優勝  歴戦の強豪がずらりと並ぶ日本選手権の歴代優勝チームリスト / 日本選手権大会
日本ラグビーフットボール史 (Ⅱ 日本代表強化新体制)

日本ラグビーフットボール史 / Ⅱ 日本代表強化新体制 日本代表の強化体制にも新しい動きがあった。,日本協会は2006(平成18)年9月29日、日本代表ヘッドコーチ(HC)、ジャン・ピエール・エリサルド,日本ラグビー協会理事会は10月25日、元NZ代表オールブラックスのジョン・カーワン招聘を、日本代表チーム・ヘッドコーチ,を持っていること②日本代表強化の中・長期的プランを持ち、かつそれを明確に示せること③日本代表活動期間中,は日本に居住可能なこと④日本の文化・習慣を理解していること⑤世界レベルの指導経験を持っていること──の / Ⅱ 日本代表強化新体制
日本ラグビーフットボール史 (JWC日本開催の意義)

日本ラグビーフットボール史 / JWC日本開催の意義 2008年5月のIRB理事会にて2009年6月にJWC(U20)国際大会を日本,この決定の一番の理由は「日本のラグビー運営能力を世界に証明できるか」という点にあり、”国際大会の開催”,また、大会を成功に収めることにより、世界に対する日本および日本のラグビーの素晴らしさの発信、日本ラグビー,の発展(国内の普及、RWC日本招致の実現、日本代表の強化)や大会を通じた地域貢献、青少年育成など大きな,の活躍によるプール戦2勝の実現を、本大会の日本開催の意義として掲げ、大会運営に取組んだ。 / JWC日本開催の意義
日本ラグビーフットボール史 (《日本選手権の変遷》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本選手権の変遷》 日本選手権の対戦記録からは時の流れというか、日本ラグビーの移り変わりが映しだされていて,その現れのひとつが大会直前に大阪のスポーツマンクラブで開かれた「第1回日本選手権展望」と題する日本協会機関誌主催,早稲田が東芝を破って3度目の日本一      同じ日本選手権7連覇の偉業を達成した新日鉄釜石,日本選手権ともいえ、そのフィナーレを飾ったのが、なんと東日本7位から日本ラグビーの頂点を極めたNECである,その結果、一時は日本協会機関誌に「日本選手権は第40回大会で終了。 / 《日本選手権の変遷》
日本ラグビーフットボール史 (Ⅰ 日本ラグビーの組織改革)

日本ラグビーフットボール史 / Ⅰ 日本ラグビーの組織改革 日本協会における組織改革は、国内外における日本協会をとりまく環境の変化を,今、日本のスポーツ界では、JOCのゴールドプランに見られるように情報戦略を重視し多くの競技団体が情報部会,森喜朗会長、真下昇専務理事の体制となってからは、このような情勢を人的資源また財務の視点からも検討を加え、日本,※  又、さらなる組織改革をすすめていくためには、日本体育協会・日本オリンピック委員会などの統括組織 / Ⅰ 日本ラグビーの組織改革
日本ラグビーフットボール史 (《高校日本代表の海外遠征》)

日本ラグビーフットボール史 / 《高校日本代表の海外遠征》 2006(平成18)年度高校日本代表の海外遠征地とその日程が6月8日、日本協会,日本協会、高体連、そして毎日新聞社の主催3者が大会50周年の記念事業として、高校日本代表チームを編成。,、さらには次世代の技術指導者が、これら歴代の高校日本代表の中から巣立っていった。,前の強化委員長で、現在は日本協会競技力向上委員会長(執行理事)である。,次のような声明を発表するとともに、その全文を日本協会機関誌に掲載した。 / 《高校日本代表の海外遠征》
日本ラグビーフットボール史 (《日本協会機関誌の復刊》)

日本ラグビーフットボール史 / ただ、発行機関が日本協会ではなく関東協会となっているのは、さきに「日本協会設立の項」でも述べたように、,残念ながら日本、関東両協会には機関誌の保存版がない。,日本協会としても機関誌の制作発行を協会活動の重要課題のひとつと位置付け、協会内に編集部を設けて日本協会,早瀬さんは人も知るラグビー通で日本協会の賛助会員でもある。,全日本を代表するチームが、どんなチームに育って行くのか。 / 《日本協会機関誌の復刊》
日本ラグビーフットボール史 (《日本ラグビーに変化の兆し》)

日本ラグビーフットボール史 / を39-12と連破して、いよいよ最終の日本代表戦を迎えることになった。,初めて日本に敗れたスコットランドのフィフティーンの心境は察するにあまりある。,から日本代表との対戦を求めてナショナルチームが日本に続々とやってきた。,日本協会創立80周年記念祭以後の日本代表に期待をしたい。   日本ラグビーの恩人カナダとの交流。,【日本代表と来日外国チームの対戦成績】 (日本で開催された第2回W杯アジア太平洋地区予選の結果は「W / 《日本ラグビーに変化の兆し》
日本ラグビーフットボール史 (《日本協会の体協脱退と復帰》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本協会の体協脱退と復帰》 【体協脱退の理由とその経緯】  日本協会が1926(大正15)年11,日本ラグビー史は日本協会の体協脱退という決断について「ついに来るべきものが来た。,日本ラグビー史は「…国体参加は日本ラグビー協会が体協加盟団体でなくてはならぬとする前提の当否は別として,日本協会80年史編纂の現時点で日本協会の体協離脱は競輪からの寄付金が原因だったと力説しても、現代っ子には,日本協会にとって理想は理想として堅持するものの、日本の中、そして世界の中でラグビーというスポーツの将来 / 《日本協会の体協脱退と復帰》
日本ラグビーフットボール史 (《日本代表の遠征を総括すると》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本代表の遠征を総括すると》 日本協会が代表選手団を送っている大会には、1969(昭和44)年3月,いまでは海外交流の主体はこちらの方に移ってしまった感すらあるが、ここでの総括は伝統的というか、日本代表,次にこれら18回の遠征で日本代表はどのような足跡を残しているのだろうか。,日本代表チーム強化活動と考えれば、遠征の結果も未来志向でとらえていくべきだろう。,時間的にもこれから、というのが日本代表強化の実態といえる。   日本代表の海外遠征成績 / 《日本代表の遠征を総括すると》
日本ラグビーフットボール史 (《日本の女子ラグビーが正式加盟》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本の女子ラグビーが正式加盟》 【日本協会への加盟と現況】  日本協会に新しい仲間が参加した。,2002(平成14)年4月1日、日本協会ジャパンクラブで協会側から日本協会会長町井徹郎、関東協会理事長貴島健治,日本女子連盟ではこの日の正式発表に先立ち、「女子ラグビーの日本協会加盟」と「第4回ワールドカップ出場」,第4回W杯での成績でもカザフスタンは日本の14位を上回る11位と日本女子を凌ぐ成績をあげている。,日本では関係者の間でしか知られていなかったが、この事実は日本の女子ラグビーが日本協会加盟以前、すでに国際的 / 《日本の女子ラグビーが正式加盟》
日本ラグビーフットボール史 (《日本ラグビーの50周年記念式典》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本ラグビーの50周年記念式典》 日本ラグビー発祥から50周年にあたる1948(昭和23)年10月,10日、日本協会主催の記念式典が東京、大阪を中心に全国各地の会場で開かれた。,流暢な日本語を駆使したスピーチもすばらしかったが、それ以上に並み居る日本協会関係者の度肝をぬいたのは「,「オックスブリッジ」といえば「一度は日本に招きたい」と、日本協会が戦前から念願としてきたことであり、また,この点だけをとっても、日本ラグビーにとっては大きな夢を与えてくれた意義ある「日本ラグビー発祥50周年記念祭 / 《日本ラグビーの50周年記念式典》
日本ラグビーフットボール史 (《日本に初めて専用グラウンドが》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本に初めて専用グラウンドが》 日本のラグビー界が世界に誇れるものの一つに東の秩父宮、西の花園という,東京の秩父宮ラグビー場の名称でもわかるように、秩父宮さまのご尽力なくして日本のラグビー界が東西に専用の,日本ラグビー史をはじめ近鉄ラグビー部五十年史、日本協会機関誌などには、秩父宮さまと花園ラグビー場建設にまつわる,日本協会は開場式に、ご結婚間もない秩父宮ご夫妻をお迎えして、全日本OB─学生選抜の試合で新装なった専用,花園ラグビー場が日本のラグビー界に返ってきたのは1949(昭和24)年のこと。 / 《日本に初めて専用グラウンドが》
日本ラグビーフットボール史 (《日本とカナダの国際交流がはじまる》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本とカナダの国際交流がはじまる》 【日本代表が初めてカナダ遠征へ】 バンクーバーで記念の写真を,バンクーバーを相手にドリブル攻撃を仕掛ける日本代表    日本協会は1930(昭和5)年8月に,日本代表チームをカナダへ送った。,日本ラグビーの世界へのデビューとなった記念すべき遠征であり、戦績(7戦6勝1分け)の点からも日本ラグビー,おそらく一番喜んだのは日本公使徳川家正の言葉を信じて日本招待を決断したカナダ協会会長J.F. / 《日本とカナダの国際交流がはじまる》
日本ラグビーフットボール史 (JWC日本代表チームの現状と課題)

日本ラグビーフットボール史 / JWC日本代表チームの現状と課題 この大会を通じて明らかになってきたJWC日本代表が内包する問題点を,そして、現状の大学ラグビー中心から脱皮すべくJWC日本代表への大学の協力関係促進が必須であり、国際試合,一方、JWC日本代表が6ネーションズや3ネーションズの代表と互角に戦うには多くの課題が浮き彫りとなった / JWC日本代表チームの現状と課題
日本ラグビーフットボール史 (2012年からの7人制日本代表強化)

日本ラグビーフットボール史 / 2012年からの7人制日本代表強化 2012年になり、男女代表HCにフルタイムの指導者を迎え、日本の,男子には、東芝を率いて日本選手権優勝を飾った瀬川氏がHCに就任、女子には、自身も代表としてプレーした浅見氏,女子は、強化が本格的にはじまる前から女子代表が大切にしてきた「日本代表チームへの尊敬」そして「日本代表選手,2012年から、日本代表として戦った国際大会での試合数は、合計235試合を数えた。  ,五輪予選第2ラウンドは、女子7人制日本代表として初めて秩父宮ラグビー場で戦うことになった。 / 2012年からの7人制日本代表強化
日本ラグビーフットボール史 (2011年までの日本の男女7人制)

日本ラグビーフットボール史 / 2011年までの日本の男女7人制 2000年を過ぎてから、世界では7人制のワールドシリーズがはじまっていたが,、2009年、オリンピック競技に正式に決まり、そしてその後数年たっても、日本の7人制は、本格的な強化はなされなかった,五輪競技採用から、7人制ラグビーの強化が加速することが期待されていたが、現実的には7人制の地位や認知度は低く、日本代表 / 2011年までの日本の男女7人制
日本ラグビーフットボール史 (《日本協会創設35周年と50周年記念祭》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本協会創設35周年と50周年記念祭》 【35周年記念祭】  日本協会の創設35周年記念祭が1963,▽近畿日本鉄道株式会社 (日本ラグビー史から)    ところで、日本協会の創設記念祭がなぜ30,なお、日本協会は35周年記念祭の開催とともに日本ラグビーの歴史を綴る「日本ラグビー史」を初めて編纂、発行,セレモニーは形通り日本協会会長椎名時四郎の式辞。,つづいて総裁秩父宮妃勢津子さまから「故秩父宮さまと日本ラグビー、国際交流の発展、日本のラグビーを今日の / 《日本協会創設35周年と50周年記念祭》
日本ラグビーフットボール史 (日本のラグビーフットボール協会の生立ち)

日本ラグビーフットボール史 / 日本のラグビーフットボール協会の生立ち 旧民法34条の規定により設立された財団法人日本ラグビーフットボール,2010年4月1日 公益財団法人日本ラグビーフットボール協会として内閣府より認定を受けた。  ,その後、5年9か月を経て「関東、西部両協会の理事合同会議で目出度く多年懸案たる日本ラグビー蹴球協会は成立,1926年(大正15年)12月30日日本ラグビー蹴球協会が正式に設立した(平成15年6月理事会で承認),このように最初は地域協会が発足し、次いで東西を統一したユニオン(日本協会)が誕生した。 / 日本のラグビーフットボール協会の生立ち
日本ラグビーフットボール史 (日本ラグビーフットボール協会統合への歩み)

日本ラグビーフットボール史 / 日本ラグビーフットボール協会統合への歩み 2008年(平成20年)12月1日の「公益社団法人及び公益財団法人,の認定等に関する法律」施行に伴い、日本のラグビーフットボール協会は公益財団法人の認定を受けることを決定,国民体力の向上と明朗なスポーツマンシップの涵養につとめ、もって社会文化の発展向上に寄与していくことであり、日本協会,統合による業務の調整・移管、財産、職員等、名称、組織・人事、経理・決算、事業展開等について日本協会と地域協会 / 日本ラグビーフットボール協会統合への歩み
日本ラグビーフットボール史 (日本におけるスーパーラグビーの立ち上げ)

日本ラグビーフットボール史 / 日本におけるスーパーラグビーの立ち上げ スーパーラグビーの参戦にあたり、まず、新規に運営法人を立ち上,(1)運営法人  スーパーラグビーを運営する日本法人は、JRFUの外部に一般社団法人ジャパン・エス・アール,表1 JSRA設立時のメンバーJSRA創設時社員・役員メンバー 役職 名前 所属他 社員 (公財)日本,ラグビーフットボール協会 眞柄 泰利 サイバートラスト株式会社 (公益)日本ラグビーフットボール協会,サンウルブズの「SUN」は「太陽」を意味し、日出ずる国である日本を象徴している。 / 日本におけるスーパーラグビーの立ち上げ
日本ラグビーフットボール史 (《W杯と日本代表チームの記録 第1回大会~第5回大会》)

日本ラグビーフットボール史 / の予選成績 ①5.23●日本18−21アメリカ○(ブリスベン) ②5.30●日本7−60イングランド,  団長  金野滋(日本協会専務理事) 監督  宮地克実(日本協会強化委員) コーチ 水谷真,の予選成績 ①10.5●日本9−47スコットランド○(エディンバラ) ②10.9●日本16−32アイルランド,○(ダブリン) ③10.14○日本52−8ジンバブエ●(ベルファースト) (日本代表はW杯出場6試合目,  団長  金野滋(日本協会専務理事) 副団長 白井善三郎(日本協会強化委員長) 監督  宿沢広朗 / 《W杯と日本代表チームの記録 第1回大会~第5回大会》
日本ラグビーフットボール史 (《日本をわかせた世界のスーパーチームが来日》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本をわかせた世界のスーパーチームが来日》 ユニセフ協会の呼びかけで世界の2強といわれるオーストラリア,試合はワラビーズが64-13、オールブラックスが50-10でそれぞれ快勝したが、日本のファンはいまをときめく,25日のサラセンズの相手は2001年度日本選手権優勝のサントリー。,SOジョニー・ウイルキンソンの勇姿を20日(国立競技場)のナイトゲームでは見ることができなかったが、日本,季節はずれの招待試合とはいえ日本のファンにとっては楽しい真夏のナイトゲームだったといえる。   / 《日本をわかせた世界のスーパーチームが来日》
日本ラグビーフットボール史 (座談会 RWC2019年日本大会への道のり)

日本ラグビーフットボール史 / 座談会 RWC2019年日本大会への道のり ※座談会は2017年4月下旬実施:出席者の役職は座談会実施当時 / 座談会 RWC2019年日本大会への道のり
日本ラグビーフットボール史 (2. 昭和60年代~現在までワールドカップと日本)

日本ラグビーフットボール史 / 昭和60年代~現在までワールドカップと日本 (1)ワールドカップ開催に伴う改革  1987年(昭和,第2回大会にはTJで参加し、第3回の南アフリカの大会ではレフリー、第4回ではTJとして日本のレフリーの,IRBのパネルアセッサーからの評価を受けることが、パネルレフリーになるための必須条件となり、日本のレフリー,早期に日本からフルタイムレフリーの誕生を急ぐことが必要である。  ,今後の課題として非英語圏の日本は、コミュニケーションの面でハンディーを持っているといわれているが、英語 / 昭和60年代~現在までワールドカップと日本
日本ラグビーフットボール史 (高校日本代表遠征(U19)記録)

日本ラグビーフットボール史 / 高校日本代表遠征(U19)記録 年度 遠征先 スコア 対戦相手 場所 2008 イングランド 14- / 高校日本代表遠征(U19)記録
日本ラグビーフットボール史 (《アジア競技大会で7人制日本代表が悲願の金メダル達成》)

日本ラグビーフットボール史 / 《アジア競技大会で7人制日本代表が悲願の金メダル達成》 初めてラグビーが採用されたバンコク大会で日本,大会は7人制と15人制の2種目に渡って行われたが、平尾誠二監督率いる日本代表は、7人制の部では韓国に14,日本はワールドカップを重視しますが、彼らはオリンピック、アジア大会です。,佐野順監督率いる日本代表は、「Get a Gold!」を合言葉に駒を進めて決勝に進出。,これはアジア競技会に出場した日本選手団の中で唯一、チーム競技で獲得した金メダルとなった。 / 《アジア競技大会で7人制日本代表が悲願の金メダル達成》
日本ラグビーフットボール史 (《日本チーム同士が初めて対戦―新時代の幕が開けた》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本チーム同士が初めて対戦―新時代の幕が開けた》 三高のチームづくりは早かった。,史上初の日本チーム同士が対戦という歴史の1ページを飾る対戦となるわけだが、慶應サイドの心配りは慎重にも,そして第2は日本を代表する東と西の新旧首都に2チーム並立の理想的な形が出来あがったことである。,車に例えるならようやく両輪がそろったことになり、日本ラグビーの全国化という未来展望の視点で今後の活動面,この日本最古の定期戦は1949(昭和24年)1月4日に京都・吉田山の三高グラウンドで行われた試合で幕を / 《日本チーム同士が初めて対戦―新時代の幕が開けた》
年代史・観戦記・その他資料 (日本代表国際セブンズ大会全成績(日本代表、日本選抜参加大会のみ))

日本代表国際セブンズ大会全成績(日本代表、日本選抜参加大会のみ) 昭和50年(1975)度 No.1,16-12 ●トンガ ●日本 12-18 ○パプアニューギニア ○日本 18-0 ●スリランカ 日本代表,日本 29-12 ●中国 ○日本 42-19 ●シンガポール ○日本 70-0 ●インド 日本代表メンバー,A組 ●日本 0-38 ○フィジー ●日本 7-26 ○イギリス ○日本 42-17 ●ドイツ 日本代表,プール ●日本 7-31 ○サモア ●日本 0-35 ○南アフリカ ●日本 7-24 ○アメリカ 日本代表 / 日本代表国際セブンズ大会全成績(日本代表、日本選抜参加大会のみ)
年代史・観戦記・その他資料 (日本代表の海外遠征)

日本代表の海外遠征 ラグビーの国際交流は、同等のレベルにある国(またはユニオン)が、相互に訪問するホーム,となり、昭和5年(1930)9月に初めて日本代表をカナダに送り出した。,昭和62年(1987)5月第1回RWCを迎えるまで、日本ラグビー界最大の行事であった日本代表の海外遠征,日本が世界の舞台へ向かって歩いた足跡をたどってみよう。,○日本代表 27−0 ●メラロマクラブ ブロクトンポイント カメロン No4 1930.9.17 ○日本代表 / 日本代表の海外遠征
年代史・観戦記・その他資料 (女子日本代表の活動)

女子日本代表の活動 前述のように、昭和63年(1988)4月に日本女子ラグビーフットボール連盟発足後,平成3年4月6日のフランス戦が、女子日本代表の記念すべき初テストマッチである。  ,スウェーデン戦で女子日本代表は10−5で勝利し感激の涙に浸った。  ,日本協会の協力も得て、国際交流に引き続き努力を続けた日本女子ラグビー連盟は、平成12年(2000)7月,平成21年度からはHCに元日本代表監督の萩本光威が就任して、男子の日本代表強化スタッフの支援・協力のもと / 女子日本代表の活動
年代史・観戦記・その他資料 (日本代表試合一覧表)

日本代表試合一覧表 日本代表試合一覧表 / 日本代表試合一覧表
年代史・観戦記・その他資料 (日本選手権大会の歩み)

日本選手権大会の歩み 日本協会理事会は昭和35年(1960)6月、ラグビー人気の衰退を打開するために,、日本一を決める大会の実現に踏みきった。,日本選手権と銘打つことは時期尚早として、第1回NHK杯争奪戦の名のもとに昭和36年(1961)1月29,日、秩父宮ラグビー場で社会人代表の八幡製鉄と、大学代表の日本大学が、日本協会に推薦されて戦い、八幡が50,日本のラグビー界において、日本選手権の果たしてきた役割は大きい。 / 日本選手権大会の歩み
年代史・観戦記・その他資料 (高校日本代表海外遠征)

高校日本代表海外遠征 / 高校日本代表海外遠征
年代史・観戦記・その他資料 (9 7人制日本代表強化の歴史)

9 7人制日本代表強化の歴史 日本協会は昭和51年(1976)、初めて香港セブンズに7人制日本代表を,団長を務めた日本協会理事の高島信之氏は『機関誌』Vol.25-5号P29に「(前略)香港における日本選手達,7人制日本代表の強化は香港セブンズでの活躍を目標に、強化委員が担当してきた。,平成9年(1997)、第2回RWCセブンズの年に、日本協会はフィジーの名手で日本でも長くプレーしたパウロ・ナワル,平成20年(2008)、日本協会は15人制、7人制ともに大活躍した、経験豊富な村田亙を専任監督に任命、 / 9 7人制日本代表強化の歴史
年代史・観戦記・その他資料 (西日本社会人リーグ戦績)

西日本社会人リーグ戦績 / 西日本社会人リーグ戦績
年代史・観戦記・その他資料 (2 日本初の7人制大会)

2 日本初の7人制大会 昭和5年(1930)に突如として各地、各層で開催されたのはなぜだったのか、だれが,にわたって力説していることから、私はカナダ遠征でラグビー人気を一気に盛り上げた、ミスターラグビー・香山蕃氏が日本 / 2 日本初の7人制大会
年代史・観戦記・その他資料 (第57回日本選手権大会)

第57回日本選手権大会 機関誌 新型コロナウイルス感染症拡大の影響により、中止となった。 / 第57回日本選手権大会
日本ラグビーフットボール史 (《タイ国の提唱で始まったアジア大会》)

日本ラグビーフットボール史 / これをはねかえしたのが日本の強烈なFWの押しだった…」(日本協会機関誌)とあり、20-13で日本が2大会,》 ○日本82−8タイ● ○日本24−22香港● ○日本23−5韓国● (日本が3戦全勝で初代,日本16−0香港● (日本は予選を全勝で通過。,64−0スリランカ● ○日本10−4台湾台北● ○日本82−6マレーシア● 〔決勝戦〕 ●日本,・青森》 ○日本75−0香港● ○日本55−12中華台北● ○日本34−29韓国● (日本は5
日本ラグビーフットボール史 (《初遠征でオールブラックスJr.を破る》)

日本ラグビーフットボール史 / 《初遠征でオールブラックスJr.を破る》 日本協会が戦後初めて日本代表チームを海外へ派遣したのは1963,ラグビーの復活に手を差し伸べてくれた友情に変わりはなく、日本協会が戦前の例に習って日本代表の戦後はじめての,だから、日本の人はびっくりする。向こうも、日本からきたやつがこんなに勝ったとびっつくりしたわけです。,…」(大西鉄之祐著、岩波新書から=原文のまま)   栄光の日本代表   【日本代表のNZツアー, ●日本代表16−25NZU○   【対オールブラックスJr.の日本代表】
日本ラグビーフットボール史 (《初めて目にする華麗なシャンパンラグビー》)

日本ラグビーフットボール史 / 後半の反撃で日本代表が1トライ、ゴールをあげたのが好印象となったのか、日本協会強化委員日比野弘は観戦記,だが、私はこの試合に将来への明るい期待を確信した」(日本協会機関誌)と日本代表にエールを送っている。,日比野弘、岡仁詩ともに日本協会の強化面の重鎮。,そして日比野弘は強化委員としてチームを離れて日本代表の試合内容を、また岡仁詩は日本選抜監督として自チーム,【フランス代表日本ツアー戦績(1978年9月)】 ①9月14日(国立=ナイトゲーム)  ●日本選抜
日本ラグビーフットボール史 (《第2次ウェールズ遠征の成功》)

日本ラグビーフットボール史 / ウェールズ遠征で高い評価を得た日本代表(1983年アームズパーク)    日本協会機関誌が特集記事,1983年の第2回ウェールズ遠征で、日本代表の健闘を報道する日本の新聞各紙   日本代表の活躍は現地,から日本代表に同行。,そういえば日本協会機関誌が10年前に掲載した「ザ・タイムズ」のサブタイトルは「日本が残していった教訓から,このあと日本代表はウェールズへと転戦する   【第2次ウェールズ遠征日本代表の戦績】 ①10月8
日本ラグビーフットボール史 (《夢の創始国イングランド代表が初来日》)

日本ラグビーフットボール史 / 日本協会が来日チームを迎えるたびに日本代表チームを編成しても、対戦するのは本来なら格下ともいうべきチーム,このことは日本協会が国際交流を通じてラグビー先進国に働きかけ、そして渇望してきた「日本ラグビーの認知」,近い大接戦を演じた日本代表チームの健闘があったからこそともいえ、今日の日本ラグビーがあるのもそのおかげともいえる,最後の最後に再逆転をゆるして、日本ラグビー80年、日本協会創設からは53年間の夢は、その瞬間に消えてしまった,代表○   【日本代表対戦メンバー】   【第2次イングランド代表日本ツアー戦績(1979
日本ラグビーフットボール史 (《黒衣のパワフル3軍団》)

日本ラグビーフットボール史 / 最終戦を前にオールブラックスと日本代表の記念写真(秩父宮ラグビー場)    ところで、日本協会からこの,参考のため付記するなら、この間の日本-NZ両協会のやりとりについては、日本側の交渉役だった当時の日本協会専務理事杉原雄吉,が日本協会機関誌にその詳細を綴っている。    ,)で日本代表が31-15とダブルスコアで念願のNZUから貴重な勝利を日本ラグビーの歴史に刻んだ。,が来日した外国の大学チームとの対戦に終止符を打ち、以後は日本選抜あるいは日本A代表が対戦の相手となっている
日本ラグビーフットボール史 (関東ラグビーフットボール協会の取り組み)

日本ラグビーフットボール史 / 関東ラグビーフットボール協会の取り組み 日本ラグビーフットボール協会と3地域協会との統合に向けて、当初,例えば、前述のとおり関東ラグビーフットボール協会はわが国で最初に設立された協会であり、なぜ日本協会に吸収,あるいは財政面で赤字経営が続く日本協会と黒字経営の関東協会が統一するのはいかがなものか、等々であった。,しかし、ラグビーの将来を考えたとき、日本のみならず世界のラグビーを視野に入れ、日本ラグビーがまとまる必要性,そこで関東協会の会議や日本協会との会議、あるいは日本協会と3地域協会との会議を重ねた。
日本ラグビーフットボール史 (《決議文》)

日本ラグビーフットボール史 / 結びに、高校日本代表として選ばれました選手の皆さんの名誉は不滅であり、このことを契機に日本代表を目指し,にご支援たまわりました学校関係者並びに保護者の皆さんに心から感謝申し上げます」    なお、高校日本代表,《全国高校大会50周年記念高校日本代表初のカナダ遠征成績》 ①3月22日  〇日本高校代表―ビクトリア,選抜●      14(3-3、11-5)8 ③3月28日  ●日本高校代表―バンクーバー市選抜,     12(3-3、9-3)6 ⑤4月4日  ●日本高校代表―BC州選抜○      16(
日本ラグビーフットボール史 (《初代会長問題と役員人事》)

日本ラグビーフットボール史 / これによって長年の懸案となっていた日本協会の基幹問題ともいうべき「日本ラグビー史」と「日本ラグビー五十年史,」(ともに日本協会編)の食い違いは解消したわけだが、①会長問題も含めた創設時の日本協会役員人事が何時、,日本協会初代会長 高木喜寬    例えば創設時の日本協会役員人事が決まったのは、年度でいえば1927,ロ)日本ラグビー蹴球協会役員のことは関西で協議すること」》《③「2月11日:1.日本ラグビー蹴球協会に,なお、史実としては日本ラグビー史が高木喜寬の日本協会初代会長就任について「幾ばくもなく高木は正会長に推
日本ラグビーフットボール史 (《5大会連続出場と世界のレベル》)

日本ラグビーフットボール史 / 第1回W杯で豪州に善戦の日本代表。,スコアが日本18−21アメリカと3点差だっただけに、取材にあたった日本の記者たちはいっそう、その感を強,日本代表が選ばれた。,この日本協会創立80年史の前史に目を通していただけば、日本協会設立後もアマチュアリズムが日本ラグビーの,これが日本ラグビー107年、日本協会80年の歩みであるが、歴史にも大きな転換を求める節目が訪れる。
日本ラグビーフットボール史 (《豪州&NZ大学選抜が相次いで来日》)

日本ラグビーフットボール史 / 、最終的には日本協会がシドニー駐在の日本領事館に勤務していた東大OB太田三郎に豪州大学チーム招待の交渉,なお、日本側は慶應、早稲田、日本代表(2試合)がセブンFW。,◇日本側の対AURFC戦メンバー◇    日本側の3勝について「勝つべくして勝ったのであり、日本の,後は関西学生代表と日本学生代表の2チームを加えた大学チーム中心のスケジュールを組んでいるが、日本代表は,日本側の35分説と激しく対立したが、結局は日本が折れてNZUのいう「40分ハーフ」で行われることになった
日本ラグビーフットボール史 (《ジャパンを支えるエージグループの強化》)

日本ラグビーフットボール史 / は急ぎ「U21日本代表」を編成して参加。,ただ、これら高校の日本代表制度が日本協会の一貫した代表チーム強化体制の中に「U19」として組み込まれ、,それともう1点は、日本協会に第1回大会参加の記録が残っていないこと。,初参加のU19日本代表はなかなか好調。,U19日本代表がよかったのはここまで。
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