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日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム

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日本ラグビーフットボール史 (《日本協会の体協脱退と復帰》)

《日本協会の体協脱退と復帰》 【体協脱退の理由とその経緯】  日本協会が1926(大正15)年11,アマチュア精神を協会設立の柱とする日本協会としては黙過できることではない。,もちろん日本協会の方針に変更はない。,この決定に基づき日本協会は同管理委に脇肇(日本協会)、片岡春樹(関東協会)、目良篤(関西協会)、葛西泰二郎,日本協会80年史編纂の現時点で日本協会の体協離脱は競輪からの寄付金が原因だったと力説しても、現代っ子には / 《日本協会の体協脱退と復帰》
日本ラグビーフットボール史 (《日本協会機関誌の復刊》)

《日本協会機関誌の復刊》 【戦前の機関誌発行】  協会機関誌の先駆けは1930(昭和5)年10月に,ただ、発行機関が日本協会ではなく関東協会となっているのは、さきに「日本協会設立の項」でも述べたように、,設立の早かった関東協会所属の事務担当者が、実際には日本協会の事務処理も兼務していたということ。,日本協会としても機関誌の制作発行を協会活動の重要課題のひとつと位置付け、協会内に編集部を設けて日本協会,早瀬さんは人も知るラグビー通で日本協会の賛助会員でもある。 / 《日本協会機関誌の復刊》
日本ラグビーフットボール史 (《日本協会創設35周年と50周年記念祭》)

《日本協会創設35周年と50周年記念祭》 【35周年記念祭】  日本協会の創設35周年記念祭が1963,日本協会にとっては発足してから初めて開く記念の行事ではあったが、時の会長、香山蕃は記念史の序文で、その,日本協会創立35周年記念祭から。中央は秩父宮妃殿下。    ,セレモニーは形通り日本協会会長椎名時四郎の式辞。,日本協会にとって残された時間はひとつの試練でもある。   / 《日本協会創設35周年と50周年記念祭》
年代史・観戦記・その他資料 (昭和36年(1961)1月29日 第1回日本協会招待NHK杯)

昭和36年(1961)1月29日 第1回日本協会招待NHK杯 新聞記事 機関誌 秩父宮ラグビー場,要三(明大) 15 原口 智雄(文雄)(④熊谷商)  日本選手権の前身となったNHK杯争奪戦は、日本協会招待試合,大学選手権はまだ行われていなかったため、日本協会が日大を最優秀校として招待したのである。 / 昭和36年(1961)1月29日 第1回日本協会招待NHK杯
年代史・観戦記・その他資料 (昭和37年(1962)3月4日 第2回日本協会招待NHK杯)

昭和37年(1962)3月4日 第2回日本協会招待NHK杯 新聞記事 機関誌 秩父宮ラグビー場 / 昭和37年(1962)3月4日 第2回日本協会招待NHK杯
年代史・観戦記・その他資料 (昭和38年(1963)3月3日 第3回日本協会招待NHK杯)

昭和38年(1963)3月3日 第3回日本協会招待NHK杯 新聞記事 機関誌 秩父宮ラグビー場 / 昭和38年(1963)3月3日 第3回日本協会招待NHK杯
日本ラグビーフットボール史 (《初代会長問題と役員人事》)

初代会長問題についても年史という立場から日本協会の統一見解を再録しておかなければならない。,」(ともに日本協会編)の食い違いは解消したわけだが、①会長問題も含めた創設時の日本協会役員人事が何時、,日本協会初代会長 高木喜寬    例えば創設時の日本協会役員人事が決まったのは、年度でいえば1927,日本協会の人事を関東協会が単独で決めることは出来ない。,日本協会初代理事長 田辺九万三   【日本協会創設時の役員名簿】 名誉会長 田中銀之助 会長   
日本ラグビーフットボール史 (関東ラグビーフットボール協会の取り組み)

例えば、前述のとおり関東ラグビーフットボール協会はわが国で最初に設立された協会であり、なぜ日本協会に吸収,あるいは財政面で赤字経営が続く日本協会と黒字経営の関東協会が統一するのはいかがなものか、等々であった。,そこで関東協会の会議や日本協会との会議、あるいは日本協会と3地域協会との会議を重ねた。,例えば、・組織統合に関する日本協会との覚書取り交わしを2008年(平成20年)4月7日に行い ・組織統合,に関する実務会議(日本協会と3地域協会)2009年(平成21年)3月2日を実施し・組織統合に関する関東協会臨時評議員会
日本ラグビーフットボール史 (関西ラグビーフットボール協会の取り組み)

関西ラグビーフットボール協会の取り組み 関西協会においても、統合一本化について、後から設立された日本協会,に吸収合併されるとの懸念が当初は支配的であり、日本協会理事会での説明を持ち帰り伝えるだけでは、真意を理解,日本協会の説明では、財団法人に関する法改正のため、中央競技団体として、公益財団法人の認定取得のための諸規程,関西協会総務委員会、理事会においてようやく総論に理解を示す方向に向かったが、部分的な質疑が残されており、最終段階で日本協会,このような経緯と時間を経て、2009年(平成21年)3月21日、日本協会と三地域協会との統合一本化が合意
日本ラグビーフットボール史 (《YC&ACセブンズとジャパン・セブンズ》)

日本協会機関誌が伝える戦後の7人制ラグビー復活のいきさつを再録した。,原稿の執筆者は元日本協会副会長小林忠郎となっている。    ,早速、関東協会の態度を決め、日本協会の奥村さんと関東協会から小林、伊藤(参次)の2名が渋谷の文化会館で,あるときは日本協会が協賛であったり、またあるときからは日本協会が主催者となるなど、両者は表裏一体の関係,日本協会との友好関係が崩れることもなく、2つの7人制大会は共存していく。
日本ラグビーフットボール史 (《高校日本代表の海外遠征》)

《高校日本代表の海外遠征》 2006(平成18)年度高校日本代表の海外遠征地とその日程が6月8日、日本協会,日本協会、高体連、そして毎日新聞社の主催3者が大会50周年の記念事業として、高校日本代表チームを編成。,コーチとして参加した岡仁詩(同志社大学監督)も、日本協会機関誌に「…今回の遠征の成績の3勝2敗というのはやや,前の強化委員長で、現在は日本協会競技力向上委員会長(執行理事)である。,次のような声明を発表するとともに、その全文を日本協会機関誌に掲載した。
日本ラグビーフットボール史 (《日本の女子ラグビーが正式加盟》)

《日本の女子ラグビーが正式加盟》 【日本協会への加盟と現況】  日本協会に新しい仲間が参加した。,2002(平成14)年4月1日、日本協会ジャパンクラブで協会側から日本協会会長町井徹郎、関東協会理事長貴島健治,女子ラグビー連盟の日本協会加盟が正式に決定し、ただちに報道関係にも発表された。,今後は従来の日女連の形を維持しながら日本協会クラブ委員会とともに女子ラグビーの普及発展めざして活動を継続,浅見敬子主将は日本協会機関誌に「…トライになるパスが2本とも笛。そしてペナルティーの連続。
日本ラグビーフットボール史 (《W杯と日本代表チームの記録 第1回大会~第5回大会》)

) 監督  宮地克実(日本協会強化委員) コーチ 水谷真(日本協会強化委員) 主将  林敏之(神戸製鋼,) 副団長 白井善三郎(日本協会強化委員長) 監督  宿沢広朗(日本協会強化委員) 主将  平尾誠二,) 監督  小薮修(日本協会強化委員長) コーチ 洞口孝治(日本協会強化委員) 主将  薫田真広,) 監督  平尾誠二(日本協会強化委員) コーチ 土田雅人(日本協会強化委員) 主将  アンドリュー・マコーミック,) 監督 向井昭吾(日本協会強化委員長) 主将 箕内拓郎(NEC)     第6回大会以降
日本ラグビーフットボール史 (《初めて目にする華麗なシャンパンラグビー》)

後半の反撃で日本代表が1トライ、ゴールをあげたのが好印象となったのか、日本協会強化委員日比野弘は観戦記,だが、私はこの試合に将来への明るい期待を確信した」(日本協会機関誌)と日本代表にエールを送っている。,モールの威力、バックスの素晴らしいスピードとハンドリングを披露してくれたフランスの選手団に頭を下げる」(日本協会機関誌,日比野弘、岡仁詩ともに日本協会の強化面の重鎮。
年代史・観戦記・その他資料 (女子7人制ラグビー)

人制大会の直前に行われていた10人制ラグビー大会に非公式で参加・出場していたが、平成14年度、正式に日本協会,日本協会も全力をあげて素材の発掘と強化に邁進しているが、2016年はもう目の前だ。,「ラグビーをメジャースポーツにする」という日本協会のビジョンを達成するためにも、女子ラグビー選手、役員
日本ラグビーフットボール史 (《黒衣のパワフル3軍団》)

《黒衣のパワフル3軍団》 このあと日本協会はフランスのパリ大学クラブ「ピュック」、ニュージーランド大学選抜,最終戦を前にオールブラックスと日本代表の記念写真(秩父宮ラグビー場)    ところで、日本協会からこの,が日本協会機関誌にその詳細を綴っている。    ,日本協会に残る記録によると、NZUは1967(昭和42)年3月に初来日以来、1970(昭和45)年3月,ちょうど新日鉄釜石全盛の時代だが、日本協会機関誌には引き分けに関連して次のような記事が掲載されている。
日本ラグビーフットボール史 (《ジャパンを支えるエージグループの強化》)

《ジャパンを支えるエージグループの強化》 「日本協会は2002年を『ユース強化元年』として、長期的視野,世界選手権)のメンバー、さらに高校代表海外遠征にも参加するため実力をチェックすることがメインに」と、日本協会機関誌,ただ、これら高校の日本代表制度が日本協会の一貫した代表チーム強化体制の中に「U19」として組み込まれ、,それともう1点は、日本協会に第1回大会参加の記録が残っていないこと。,この2点から日本協会80年史では1996(平成8)年開催の台湾での開催を第1回大会とした。    
年代史・観戦記・その他資料 (女子ラグビーの歩み)

組織作りの中心になって活動してきたのは岸田則子(現日本協会女子部門長)さんだ。,当初日本協会には「女性がラグビーをやらなくても……」と参加を歓迎しない空気があったことは事実である。,しかし徐々に「日本協会も認めて支援・協力すべし」との声が強くなり、IRBの要望にも応え、平成5年(1993,)9月1日に、日本協会は女子ラグビー連盟を関連団体として承認した。,女子ラグビーの国際的発展に備えて「日本ラグビーフットボール協会」に参画し、「女子ラグビー部門」として日本協会
日本ラグビーフットボール史 (《5大会連続出場と世界のレベル》)

左は生田、右は河瀬    大会に参加してみて日本協会はいろいろな点で驚かされる。,もちろん、これを機に日本協会の意識にも大きな変化が起った。    ,もう1点あげるとするなら日本協会の強力なバックアップである。,そこで日本協会は強化委員長に白井善三郎を起用。,この日本協会創立80年史の前史に目を通していただけば、日本協会設立後もアマチュアリズムが日本ラグビーの
日本ラグビーフットボール史 (Ⅱ 日本代表強化新体制)

日本協会は2006(平成18)年9月29日、日本代表ヘッドコーチ(HC)、ジャン・ピエール・エリサルド,契約解除の理由は、日本協会と事前の話し合いがないまま、エリサルド前HCがフランス1部リーグアビロン・バイヨンヌ,後任HCの人選については「8強会議の意見も聞きながら早急に決めたい」(真下昇日本協会副会長・専務理事),日本協会は2006年9月29日に行ったプレスカンファレンスの冒頭で、ジャン・ピエール・エリサルドの突然,ばれたラガーマンにだけ与えられる地位である点を考えるとき、エリサルドHCの二つの国にまたがる兼職問題は、日本協会
日本ラグビーフットボール史 (資料収集の対象と方法)

戦前も含めて、日本協会が設立された1926年以降総ての必要とされる資料の保存の状況、再回収の可能性、あるいは,されている第2次世界大戦後以降の1946年(昭和22年)からの(財)日本ラグビーフットボール協会(以下日本協会,戦術的な影響、運営上の問題等についても分析、検討するに当たり、1952年(昭和26年)から発刊された日本協会,の機関紙“RUGBYFOOTBALL”さらに過去の日本協会の歴史等に関する資料6,9,10,23)を補助資料,改正の内容について、わが国のルールと英国でのルール改正の内容について比較検討するのではなく、あくまで日本協会
日本ラグビーフットボール史 (《全国クラブ大会》)

日本協会はラグビー人口の底辺拡大を目標に2003(平成15)年度の第41回日本選手権から全国クラブ大会優勝,さらにいえば全国クラブ大会が日本協会の主催で開催されるようになって、まだ13年と、学歴でいえば高校時代,(日本協会機関誌2005年4月号から)    同じように敗者タマリバ・クラブのチームディレクター中竹竜二,今日は負けてしまったが、全国のクラブチームの先兵の役割は果たせたと思う」(日本協会機関誌から)と答えている,その意味でクラブラグビーの育成に目を向けた日本協会の今後が注目される。  
日本ラグビーフットボール史 (1. 昭和40年代~50年代)

がトップレフリーを独自に決めていたが、全国大会等の開催に伴い、昭和40年代前半には委員会の審査を経て日本協会公認,昭和45年には日本協会公認レフリーが23名いたが、昭和47年には3名、昭和50年には6名と精選された。,昭和52年にはレフリー審議委員会が設立され、日本協会公認レフリーの推薦を担うようになった。,(平成11年にA2制度ができたが、A2は日本協会公認ではない。)  ,そして、公認A級は、国際試合、日本協会主催試合、地域協会主催試合を担当し、公認A1級は日本協会主催試合
日本ラグビーフットボール史 (日本ラグビーフットボール協会統合への歩み)

国民体力の向上と明朗なスポーツマンシップの涵養につとめ、もって社会文化の発展向上に寄与していくことであり、日本協会,統合による業務の調整・移管、財産、職員等、名称、組織・人事、経理・決算、事業展開等について日本協会と地域協会
日本ラグビーフットボール史 (《私とラグビー》)

(日本協会の機関誌「Rugby Football」復刊第1号から)    秩父宮さまご自身で綴,80年史としては日本協会設立を巡る秩父宮賜杯がはたした役割について記録しておきたい。    ,この川目原稿は、秩父宮賜杯下賜の内意が、それまで単なる机上のプランに過ぎなかった日本協会主催の東西対抗,秩父宮賜杯の下賜内定が日本協会の組織づくりを緊急課題としたことに触れてきたが、内部的には全国的なルール,この時点での日本協会会長空席の事実を思わせる写真ではある。
年代史・観戦記・その他資料 (平成18年(2006)度)

Español 108シーズン目 【協会】 2015RWC日本再招致を決定 11月17日、日本協会,理由は日本協会の承諾なしに、フランス1部リーグのバイヨンヌのマネジャーに就任したことによる。,兼務してもやれるとのエリサルドの考えと、代表強化に支障をきたすとの日本協会の考え方が乖離(かいり)したためだが,日本協会は太田治GMがヘッドコーチを兼務、ジョン・カーワンがアドバイザーとして補佐し、1月から正式にHC,/日本協会創立80周年式典 日本協会は11月4日に式典、記念試合、祝宴を開いた。
日本ラグビーフットボール史 (《夢の創始国イングランド代表が初来日》)

日本協会が来日チームを迎えるたびに日本代表チームを編成しても、対戦するのは本来なら格下ともいうべきチーム,こうした日本協会としては不本意な時代がつづいた交流19年目の1971年9月。,このことは日本協会が国際交流を通じてラグビー先進国に働きかけ、そして渇望してきた「日本ラグビーの認知」,改めて日本協会創設80周年の歩みを綴る記念史に「ジ・ユニオン」(イングランド協会の名称)の厚情と見識に,トップ記事はもちろん全イングランド招待組織委員長目良篤(日本協会副会長)が綴る「ありがとう!
日本ラグビーフットボール史 (《キャップ制度の発足》)

日本協会は同年12月17日にキャップ制度の新設を決めるとともに、第1回対象者254人を発表した。,(別表)  日本協会は発表にあたって「キャップ(帽子)には日本代表選手としての名誉とその重みを自覚してもらうことがこめられており
日本ラグビーフットボール史 (《三地域対抗ラグビー》)

1947)年西部協会が分割されて、九州一円を統括する九州協会の新設をみ、西部協会は関西協会と改名し、日本協会,そうはいっても、日本協会設立時代に、三高、京都大学を通じて、日本ラグビーの競技ルール確立に功績のあった,巌栄一(後に日本協会副会長、関西協会会長)が、1967(昭和42)年9月発行の日本協会機関誌に「ズバリ,…」(原文のまま)    この巌原稿の指摘がきっかけとなったのか、どうかはともかく、日本協会機関誌
日本ラグビーフットボール史 (《はじめに》)

ラグビー復活をオックスブリッジ招聘に托した日本協会の意図と企画は大成功をもたらしたわけだが、それには序章,関与するなど、日本ラグビー界では数少ない国際人だった」(要旨)が、その奥村竹之助自身も復刊したばかりの日本協会機関誌第,に「一日も早くラグビーの国際交歓試合を復活したいのは我々の年来の興望であり、その実現を期す可く昨年来日本協会,加州大学招聘は断念せざるを得なくなった」(日本ラグビー史から=原文のまま)    国際人、奥村竹之助が日本協会機関誌,日本協会に残る記録によると、全香港の日本遠征成績は4戦2勝1敗1分け。
年代史・観戦記・その他資料 (女子日本代表の活動)

日本協会の協力も得て、国際交流に引き続き努力を続けた日本女子ラグビー連盟は、平成12年(2000)7月,平成14年(2002)4月日本協会に加盟、5月にスペイン・バルセロナで行われた第4回RWCに出場、37,女子ラグビーの試合記録等は、日本協会女子ラグビー部門の資料に加えて、協会機関誌、ラグビーマガジン、秋山陽一氏
日本ラグビーフットボール史 (《日本ラグビーの50周年記念式典》)

ラグビーの50周年記念式典》 日本ラグビー発祥から50周年にあたる1948(昭和23)年10月10日、日本協会主催,流暢な日本語を駆使したスピーチもすばらしかったが、それ以上に並み居る日本協会関係者の度肝をぬいたのは「,「オックスブリッジ」といえば「一度は日本に招きたい」と、日本協会が戦前から念願としてきたことであり、また,【日本協会招待試合】(1948年10月10日、東京ラグビー場)
年代史・観戦記・その他資料 (4 ジャパンセブンズ)

4 ジャパンセブンズ 7人制ラグビーの将来に備えて、日本協会は平成5年(1993)に第1回のジャパンセブンズ,日本協会はセブンズの高校大会、大学大会などの育成・強化に力を注いでおり、近い将来、セブンズの日本選手権,平成23年(2011)1月17日、日本協会は同年4月16、17日に秩父宮ラグビー場において、「東京セブンズ,日本協会は止むなく「東京セブンズ2011」の中止を発表した。
年代史・観戦記・その他資料 (9 7人制日本代表強化の歴史)

9 7人制日本代表強化の歴史 日本協会は昭和51年(1976)、初めて香港セブンズに7人制日本代表を,団長を務めた日本協会理事の高島信之氏は『機関誌』Vol.25-5号P29に「(前略)香港における日本選手達,平成9年(1997)、第2回RWCセブンズの年に、日本協会はフィジーの名手で日本でも長くプレーしたパウロ・ナワル,平成20年(2008)、日本協会は15人制、7人制ともに大活躍した、経験豊富な村田亙を専任監督に任命、
年代史・観戦記・その他資料 (大学東西王座決定戦の歩み)

昭和35年(1960)度、日本協会は、大学と社会人のチャンピオンを対戦させる制度を採択した。,出場チームは日本協会が選び、日本協会招待NHK杯争奪戦と称した。
日本ラグビーフットボール史 (《トップリーグ創設》)

同時に日本協会の役割となる全国のラグビー競技の発展への寄与が明確に打ち出されたラグビーリーグである。,1.日本協会の求める理想(ビジョン)  ラグビー競技を誰からも愛され、親しまれ、楽しめる、人気の高い,スポーツにする 2.日本協会の使命(ミッション)  日本協会や参加の各地域協会・支部協会、および日本全国,これはトップリーグの役割を宣言し、日本協会の定めるビジョンとミッションを達成するための目標となっている
年代史・観戦記・その他資料 (女子ラグビー検討委員会報告・引継書)

女子ラグビー検討委員会報告・引継書 私は女子ラグビーが日本協会に加盟する以前に、側面から協力しながら,女子ラグビーが日本協会に参画する以前の発展過程と経緯が判るので、担当理事交代の際の引継書を掲載する。,専務理事 白井善三郎 殿 担当理事 日比野 弘 1 経緯と提言 Ⅰ 経緯  1993年9月、日本協会,1996年9月、日本協会は私をカナダでのIRB女子ラグビーアドバイザリーコミッティに出席させた。,日本協会は、女子ラグビー連盟の要望に応え、段階的に協会と一体となって、更なる発展を期す時期を模索しながら
日本ラグビーフットボール史 (《初遠征でオールブラックスJr.を破る》)

《初遠征でオールブラックスJr.を破る》 日本協会が戦後初めて日本代表チームを海外へ派遣したのは1963,なにしろ日本協会としては外国との交流が再開したばかりの時期。,盛り上がりに欠けるきらいはあったものの、日本ラグビーの復活に手を差し伸べてくれた友情に変わりはなく、日本協会,それも日本協会に招待状を送ってきたのは戦前に来日したNZ大学選抜(NZU)の派遣母体でもあるNZ大学評議会
年代史・観戦記・その他資料 (昭和40年(1965)度)

Español 67シーズン目 【協会】 主要な公式試合はすべて40分ハーフ 9月1日、日本協会,/日本協会がラグビースクールを開校 9月15日、日本協会は秩父宮を会場に東京ラグビースクールを開校した,【代表】 日本代表強化合宿始まる 日本協会は、日本代表の組織的強化を目指して7月20日から24日まで、
日本ラグビーフットボール史 (《アジアのセブンズは香港》)

日本協会が発行する機関誌でも1994年の5月号の表紙は、香港ガバメントスタジアムで戦う日本代表の写真である,ところで、日本協会はその香港セブンズに第1回大会(1976年)からセブンの日本代表を送っている。,日本協会に残る記録によると、日本代表は初参加の第1回大会から第4回大会まではカップ(決勝)トーナメント,日本協会技術委員会によると「7人制は日本ラグビーのボトムアップを図る上で重要な活動として強化に取り組んでいる,これら過去の大会実績を考えると、第4回WC'7大会の結果(プレートT・準々決勝進出)は、日本協会技術委員会
日本ラグビーフットボール史 (《初めて目にした創始国のラグビー》)

を振るってラグビー発祥国からオックスフォード大学招聘を実現するが、1960(昭和35)年3月31日、日本協会理事会,日本ラグビーフットボール協会    総裁   雍仁    日本協会はオックスフォード大学ラグビーチーム,この一事が慣例となって日本協会は外国から主要チームを招くたびに「総裁宮さま」からお言葉を戴くこととなった,戦後の1947(昭和22)年9月に日本協会総裁としてお迎えした「ラグビーの宮さま」は、久しぶりのご観戦,日本協会にとって宮さまご逝去の1953(昭和28)年1月4日は、忘れられない日となってしまった。  
年代史・観戦記・その他資料 (昭和27年(1952)度)

#241;ol 54シーズン目 【協会】 秩父宮殿下ご逝去、妃殿下を総裁に推戴 昭和28年1月4日に日本協会総裁秩父宮殿下,日本協会は1月31日、総裁に秩父宮妃殿下を推戴した。,日本協会は1月31日、新会長に田邊九萬三を推挙した。
年代史・観戦記・その他資料 (5 平成3-12年(1991-2000)度)

宿沢監督の退任を受けて、日本協会は平成4年度(2002)に小藪修を新監督に任命した。,平成8年(1996)度に、日本協会は白井善三郎専務理事が中心になり、日本代表の強化を推進するため、アメリカ,平成9年(1997)度には第4回RWCへ向けて強化のステップを早めるため、日本協会は待望論の強かった平尾誠二,第4回RWC終了後、日本協会は初めてRWCをまたいで平尾監督を留任させ、継続強化の路線をスタートさせた
日本ラグビーフットボール史 (《協会成立の経緯と背景》)

このように杉本貞一の提言が日本協会設立への第一歩となって、関東、西部両地域協会へと発展していったわけだが,ところで、日本協会の成立については、過去に1926(大正15)年12月説をはじめ1927(昭和2)年、,④同時に日本協会の組織確立作業が停止したこと。,昭和2年から3年にかけて、関東協会が日本協会のことを推進していることがよく分かって誠に面白い。,(注)田辺九万三理事長は日本協会理事長(初代)も兼務。    
日本ラグビーフットボール史 (《ダークブルーの次はライトブルーのケンブリッジ大学》)

られてきたことではあるが、それだけに招聘の順がオックスフォード、ケンブリッジとなったことについて、当時の日本協会理事長香山蕃,いずれにしても、日本協会の財政事情を勘案すれば、遠くラグビー創始国から2年つづけて名門大学を招聘することなど,第4戦の対全早稲田戦では当日券売り場ににファンの長い列ができてキックオフを10分遅らせるなど、日本協会,外国から戦後初めて招く大学チーム招待の選択という点で日本協会の判断に寸分の狂いもなかったことを、この80
年代史・観戦記・その他資料 (大正15年(1926)度)

#241;ol 28シーズン目 【協会】 日本ラグビー蹴球協会創立 関東協会、西部協会の創立により日本協会設立,(中略)日本協会の会長には男爵高木喜寛が推薦されたが、一応副会長ということとし、名誉会長に田中銀之助を,/日本協会理事の選任 日本協会の初代理事会は下記の人々によって構成された。
年代史・観戦記・その他資料 (昭和21年(1946)度)

スクラメージ内にある場合、自己はスクラメージ内にあらずして、片足にても球の前方に留まるとき」と昭和21年度の日本協会,『競技規則』に記されている(以下【ルール】の出典は日本協会『競技規則』による)。
日本ラグビーフットボール史 (《タイ国の提唱で始まったアジア大会》)

ARFU初代会長に日本協会会長代行湯川正夫、書記長兼会計役に金野滋が選出された。,その点を日本協会機関誌は「…アジアラグビーのリーダーシップをとる日本チームはベストメンバーを編成、…」,(スリランカ)の年、すなわち1974(昭和49)年度には初めて協会代表チームの強化を担当する委員会が日本協会,日本選手団団長の小林忠郎が日本協会機関誌に「…試合内容は完敗であった。実に惨めな敗北であった。,しかし、日本協会が2001年にオープン化を宣言。
日本ラグビーフットボール史 (《日本とカナダの国際交流がはじまる》)

へ】 バンクーバーで記念の写真を バンクーバーを相手にドリブル攻撃を仕掛ける日本代表    日本協会,日本協会機関誌掲載の「ラグビー史話(6)」(田尾栄一著)に、カナダ協会が日本代表チームの招待に到った秘話,ただ、昭和4年といえば日本協会副会長、高木喜寬がそれまで空席となっていた日本協会初代会長に就任して間もない,こうして日本協会は団長兼監督に日本協会理事香山蕃、総務(マネジャー)に同書記長川目保美を決めるとともに,日本協会が成立してわずか4年で世界との交流である。
日本ラグビーフットボール史 (参考)

日本協会では、WR試行に積極的に関与し,安全対策委員会、メディカル委員会、アンチドーピング委員会、普及
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